情報誌IMAJU vol.36
クロスオーバー談義●鷲田清一 × 金満里

「魂とからだを語れば」


 身体表現を語ると、身体と心あるいは魂と言われているものの繋がりについて、イマージュの誌面に繰り返し出てきています。
 今回のクロスオーバー談義は、『悲鳴をあげる身体』はじめ数々の著作を出され、メルロ=ポンティの研究や近年は「臨床哲学」を提唱され、現場の実践と哲学の切結びを追及されている鷲田清一氏に登場いただきました。五感を通した実感から哲学に取り組もうとされているような鷲田さんのしなやかな視線とのかけ合いにより、そこかしこに劇団態変の表現の真髄に迫るものが見え隠れする対談となりました

魂のありよう

 私のこだわる点は、身体の見た目、見た目の身体の外側というものと、表現するときには魂だというふうに私は思っているのですが、中身としての魂の有り様が、それが絶対に関わってくると思っていまして、だから、中身代われば形も変わるって思ってるんです。中身が形を選んでるんじゃないか?
 だから形には必然があって、その形の必然から魂を表現する。中身をいかに引き出してくるか? が身体表現じゃないかと思っていまして、内と外の格闘っていうか、そういう現場ですよね。私のやってる身体表現は。
 舞踏の大家の大野一雄先生は、魂の舞踏って言いはるんですよ。で、魂が立ち現れてくる身体に自分自身、模索するまでデタラメの限りを尽くさないと、そこまで身体の中から魂というのは容易に出せないという、舞踏のというか大野一雄先生の考え方があるんですよね。だから、ある意味、その野放図さがきっちり見えて、これがこうという風に、理解できるとか置き換え出来るものではないところが、ものすごく大事だと思ってるんです。
 それで、『色は臭へどIV』をご覧になって、鷲田さん的な解釈で観るとどのように観られたのか? をお話しできたらと思っています。

鷲田 『色は臭へど』とオーバーラップしたのが、大野さんのお母さんの話しで、海の底のカレイ、あのイメージが、垂直の動きというよりも。むしろ這うような小さな起伏の連続でしょう。ふとあの時、大野さんのお母さんのこと思ってたんですけどね。僕にとって『色は臭へど』、初めて見せていただいただけで判断出来ないけど、あの時受けた印象いうか、体の感覚として、あーっと思ったのは、体とが魂というか心というものと決してピタっと一枚に合わさることって、滅多にない。いつでも、その間にもどかしいほどのズレがあって、心が体をもどかしく引きずっていたり、逆に心の方が体のある時の自動的な動きに引っ張ってもらって、かろうじて立ち起こったりっていうような、そんな思いでズーと持って見ていたんですね。もちろん、いろいろ台詞が入ったり風刺的な、すごいコミカルなとこや、そういう劇的な要素も、もちろんおもしろかったんですけど、僕にとっては劇的な要素以上に、引きずったり、追い越されたりとか、そんな感覚がずーと見てる間、持続して、だから、ちょっとこっちの体にも残りました。

   うつるんですよ。態変の舞台を見ると観客は。

鷲田 ねえ! うつるでしょ。 やっぱりそう? 僕だけじゃない。

  帰って、鏡見てやっぱり思わず、そういう風にならないっていうところ、やってみて確認するというか。よく聞くんですよ。同化したいけども、一緒になれないとこっていうもの。だけど、出来るんじゃないかという風に、錯覚させるところが、すごくあると思うんですよね。それくらい身体障害者の身体というものが、違うものとしてじゃなく、非常に普遍的に際限なく無限大に近い身体として、観客は自分の方に、迫ってくるものやないかと思うんですよ。

心は見える

鷲田 この1月に天満(大阪市北区)の小学校で授業をやったんです。ある新聞社から「心って何?」てテーマを与えられたのでね。小学生といきなり議論するのは絶対にもたないだろうと思って、最初にその「心」があると思う人? って、手上げてもらったんですよ。全部で60人位でしたか?
 一人除いて全部が「ある!」とためらい無しに手あげて暠。「あれっ?」て思って、「ほんなら心見たことある人?」って言ったらね、一人もいないんですよ。それで、みんな「心」って大事やと思てるけど見たことが無い。なんで大事やとか「ある」っていえるんや? いうところから、「見えない」のをチャラにして、逆に「心は見える」と考えたらどうやろう、ということで授業を始めたんです。
 川崎徹っていうコピーライターに、人間を矢印とか点で表してる漫画シリーズみたいなんがあるんです。例えば、出てくるのは、大人のお兄さんと弟で、クネクネクネクネしてる締まりのない弟なんですね。主人公の子供とは上手いこといくんです。クネクネクネクネした絵が矢印で描いてあるんですよ。そこへお兄さんが来て「コラー、何やっとるんだあ!」言う。そして太い矢印がブワーっと立つ。すると弟さんがヒューってこんな矢印に縮こまる。
 そういう感じで、その人の姿を具体的に描かないでイメージというか、感触だけで描いてる作品があって。それを見せて、自分にとって一番気になる人、お母さんだとか、だれかを今想い浮かべ、その人の絵を顔とか体と違って、線と点だけで描いてごらんって。マジック太いのを渡してあげたら、お母さんがうるさいし、いやでいやでしゃあない子は、こんな風に「エイヤー」と迫ってくるお母さん描くしね。存在感ない妹のことやったらホントに頼りない線で描いたりする。「これやっぱり、見えてるやんか。」て言って。だから見えるっていうのは、体の形やなしに、金さんは形って言わはったけど、形は、決してその人の体型や、どんな眉毛という意味じゃなく、ぐっと迫ってくる形ってあると思うんですよ。
 例えばお母さんの顔描いてもらうと皆同じような顔になりますね。顔っていうのはこの顔面の造作やなしに、川崎徹さんが点や矢印でぐわっーと描いたのがその人の顔じゃないかと言って、そんなん描かすと、一人一人違う絵を描くんです。だから、見えるものっていうのは、形とか体型とかじゃない。顔つきや振る舞いでもなく、その人が自分にこう、押してくる圧力でもいいし、或いはドロドロになるのでもいいし、トロトロになってもいいし、そういう風に考えると、心って絶対見えるんやと言いたくなるんですよね。


魂と体のペース

  表現を考えるときに、障害者の場合のその身体と魂っていうことは、非常に普通の健常者よりも、そのことに直結してるんやないかと、身体表現はそこまで、障害者の身体の上にすごい可能性があると思ってましてね。それは、実は健常者の身体にも言えるんです。

鷲田 友人の精神科医がおもしろいことを言ってくれて、要するに、私と心と体の関係ってどうなってるのって訊ねたときに、僕ら、心と体とは別っこのもので体の中に心があってと、普通考えますよねえ。その精神科医は、心は体のことやと、そこを私が出入りするんやと。いう言い方されて、そういう考え方もあるのかと思って。

  そうですねえ

鷲田 心といってもいいんですけども、そこに私がある時、入ったり出たりするようなイメージで考えたらいんじゃないか。そう考えるとね、眠っている時っていうのは、ちょっと自分がその周辺に出てるっていうか、ただ心と体が一つになって、そこにでーんっとあることだと考えてもいいし。未だに、それが、直感的にすごく納得するんやけども。

  そうなんですよ! だから、その自分の身体のペースというんですけどね。障害者のペース。独特の一人ずつの動きかたっていうものに癖があるんですよね。そのときの、その空気の震わしかたも含めて、体のペースって言うんですけども。そのペース自体がものすごく大事で、そこにあるものを、心や魂に直結したものとして受け止めたら…。

鷲田 ペース自体が。

  形から派生するものなんですよね周りに。その形をとっていくこの動かし方が健常的な普通の鞣めされた動きやなく、すごくギクシャクしてたり、私の場合はポリオだからヌチョーとしてるんですよね。そういうときのペースは、ギューと中に集約されながら、ものすごい収縮と拡散が同時に起こるような、分解されていくような、すっごい緊張感がいいんですよ。そういう身体の有り方って。

鷲田 それが、何かあることをするっていう、その行為に吸い込まれないんですね。

  そうなんです。目的に直結しないので、そこの目的に解消されないというか…。

鷲田 何してるのって言ってしまったら、終わりなんですよね。

  そのときのその、単にそこであるものを、そこで驚いたり、感嘆したり、すごいものを受け取ることが、自分の身体でも、周りの障害者でもダイナミックに動き出すときのおもしろさってあるんです。ダイナミックに日常的なことをやるっていうことが障害者はあるのに、健常者的な動きをやらないといけないと、なるべく動きを鞣して、平均的な動きにするように、非常に動きを狭まれてるわけですよ。その突出した、変な動きを押さえつけ、やらないようにやらないようにと日常の生活で私ら障害者は縛ってると思うんですけど、それが一度外れてしまって、出だしたら、身体がものすごく生き生きしてる。すると、その人の心も生き生きと見えてくるというか。

鷲田 じゃあ、障害ある方だけでなく、誰にでも言えるわけですよね。

  そうなんですよ。

鷲田 子どもを電車の中で観察してておもしろいのは、お母さんと手をつないでても、混んでる電車の中でもじっとすることが出来ないで、ぐっるぐるぐっるぐる、お母さんや棒の周りをただただ無意味に回ったりやりだすでしょ。あれなんですよね。じっとしてられへん感覚っていうのは。

  だからそのときの心のありようを、体の行動のなかに…。

鷲田 そのときぐるぐる回ってるのもその子の魂なんですよ。だから、動きがドローンとしてるのに耐えられへんのやと思いますねえ。必死で時間が早く動くようにやってる。

 そうですねえ。そういう、魂の響きみたいなことに、近くなるのは日常的にも非常に大事やと思うんでね。

障害という機能に気付く

鷲田 大学院に、社会人で入学したリハビリの理学療法士の先生が、哲学の理論だけやなしに、自分が今まで十年以上やってきたリハビリの身体の記述をきちんと取り入れて、メルロ=ポンティを論じ出さはった。
 その人の論文にこんな記述がありました。脳溢血で半身不随で片一方が動かないので、自分の頭のなかで、自分の体はどうなって、手がどこにあるかいうこと全部イメージの中に入れてるけども、その時に感覚がある方の体と、ない方の体とでは重さのかかりかたも違うし、一方が無感覚になることで、他方ががものすごい混乱状態になって、寝転ぶだけでも、ものすごくしんどい難しい作業になって晡晡。
 メルロ=ポンティは、身体図式ってこというんですけども、それは単純に今の体にすみつくだけじゃなしに、そのすみついたときにいつでも、体のどの部分にも翻訳してね、ヒジで絵書いたり、足先でも書ける。練習して、どこでも別の形で実行出来るっていうんですよ。で、体を手に入れるというのは、そういうことなんだと。だから、虫でも6本足で歩いてたのが、人間が一本足押さえたり、抜いたりしてしまうと、その瞬間に歩行システムを変えて、5本でまた同じように歩くっていう。体って不思議やと書いてるんです。でも、その姿勢っていう問題になると、その字を書くとか、お箸を持つとかの行為じゃなしに、そんなもの全部支えるもんでしょ。でそれは、転換も何も出来なくてね、体のどっかが無感覚になると、どれだけ身体が不安定になるということを、そのリハビリ論文を読んで思いました。

  私たちの考えでは、ちょっと違うんですよ。
 下半身不随で急にからだ半分が動かなくなった人を研究所やワークショップで教えたことあるんですよ。その人の半分いうものが、確かに感覚が途端に分裂するわけなんですよね。片一方がなくなるだけではなく、引き裂かれるというか。だから自分のその片一方を無いものにするのか、それともそのなくなっていく、その感覚そのものの身体として、取り戻していくのかだと思うんですよね。だから、肩替りを片一方で全部バランスとりながらやることではなくて、そこへのあり方いうか、感覚がなくなった側の感覚の方が大事で、全部をもう一度、再構成は一緒だけれども、捉らえ方を変えていく、片一方をもう片一方の補いじゃなくて、障害の部分そのものが本当に掴んで動きたいという、障害のある方の機能の方が大事だと。(障害があるということは、)普通は機能がないっていうことなんですが、障害という機能だと思うんです。
 わたしが誘導していくワークショップで、その人が、ずーと従ってやっていたら、うつむき姿勢になれたんです。ワークショップ2日か3日通って最後に聞いたときに、脳溢血かなにかで下半身不随になってから、うつむき姿勢がとても恐ろしくて、出来なかったのがいつの間にかやっていた、って言われたんですよね。
 それは、機能訓練的に出来たからでなくて、障害の部分で重力を感じたり、ものすごく微細なところを健常な身体は、切り落として感じないようにしてるわけですよね。だけど障害の部分のものすごく微細でナイーブな感覚それ自体を取り入れていかないと、動いてるところの感覚だけでは、動いてくれないんですよね。だから、わたしの思うのは、そういう感覚は皮膚感覚なんですよ。
鷲田 なるほどね。つまり、リハビリ的に発想する身体はどこまでも、出来る出来ないの論理が動いているんですね。

  だから、出来ないということ自体の意味というか、その中に含まれているものに、注視とか凝視するというような感覚でやらないといけないんですかね。

鷲田 なるほど、そうするとその問題は老いの問題にもそのままつながるんですね。老いは、独力で出来ることが、ひとつずつなくなってくる。それをさっきのような、出来る出来ないという論理でいったら、老いの問題っていうのは全部、若さを保つとか、いつまでもこれが出来るというふうに発想されることになる。それが出来なかったら全部マイナスなのかってことになる。でも僕はもっと老いた体の記述っていうのが、もっともっとあっていいと思うんです。出来ない体は、出来る人には分からないわけで、人間は、若い時には見ないですましていた自分の身体に、老いのなかで直面してくるわけで、ああ昔出来たのに、これもあれも出来んようなったっていう、その体の事実は、身体論でもあんまり出て来ないんですよね。

  だから、去年の6月にドイツのシュツットゥガルトで世界演劇祭に呼ばれて公演やったんです。そのときの作品で、ドイツ人のすごくシビアだし、物事を深くとらえ掘り下げる、表現としてもいいところをとらえたすごい劇評がいくつも出たんです。だけどやっぱり立って歩けて動けるダンスとして、身体表現として見える役者の名前しか出てこないんです。
 『色は臭へどIV』見はったと思うんですが、わたしは(あの作品の中で)、森永(ヒ素ミルク)退治をやった、寝たきりの、木村年男の身体の中にあるものが、劇団態変の中では、一番の表現の糧と思ってるんですけども、なかなか健常者の観客の評価として、寝たきりの身体のほうに目がいかないんですよね。立ってる役者が評価しやすいってとこに流れて行ってしまう。昔、旗揚げした当初、寝たきりの役者が自分たちは損やと、立った者ばかりが目立つと冗談半分めかして言う奴もいたんやけども、やっぱりその価値観って絶対強いわけでしょ。あの黄金分割ですよね。ものを見てて、どこの位置にものがあるのが一番、人間の視線としてとらえやすくて、そっちに目がいくっていう、そういう人間の本能的な、ものをとらえるときの視点のあり方があるのと、本当に寝たきりの寝たままの動きが、全然なにもやっていないのではなくて、立ってる者と比べてそれ以上のことをやっているっていうふうに、人間が意識するまでに、身体表現をどういうプロセスとしてやっていけばいいのか、とよく自分がやってても思うんです。
 基本的には地面に接触した人間の身体っていうものが、形だけやなく、そこでのその気持ちいうか、心っていうか、その見てる側の心が、実は表れてる、表されるっていうか、そういうものってあると思うんですよ。

鷲田 立つってことは、人間は生き物として、ある意味で無理をしてるわけですから、そのことで、全部の筋肉が立つっていうことに向かって動員されてるんですね。朝目覚めてもなかなか起きられないのは、立つことから免除されることで、普段は動員されない体の運動と感覚がちらちらってこう目覚めるっていうかね、許されるってところに、僕は寝っ転ぶってことの喜びみたいなのがあると。

  だけど、立ってしまうと鈍くなるんです。もう、足の裏だけで地面にひっついている状態。ということは総動員で立つことに向けられてしまうんで、その筋肉の持ち方ていうことだけで、皮膚感覚っていうものがなくなってしまう。単独で自分が一人だけで立っているという感覚しかないですよね。で、寝たきりの場合は、地面につく面がすごく広いわけなんです。そうすると、皮膚感覚の持って行き方というものが、その人の身体の姿勢になってくる。そのときの単に体を動かそうっていうことじゃ絶対だめなんですよね。そこの気持ちとして、ほんとにそういうふうに思わないと、体は動いてくれない。

鷲田 立ってるときは思わないけども、寝てると頬っぺたも重いとリアルに感じますものねえ。あるいは、手の重さとかね、こうやって横になってるとき手を上げたら手がいかに重いものかってねえ。

  そういうことに対して、身体というものが身体として、動かすものとか、道具として役に立つとかやなくて、非常に大事な身体は自分のありどころなんじゃないかって思うんですよね。

情報を選び取ってる身体

  鷲田さんのメルロ=ポンティも読ませていただいて

鷲田 読みにくかったでしょう?

  いえいえ。メルロ=ポンティはすごく共感するところが多くて、面白いですね。

鷲田 クネクネした議論やから、一回読んだだけではわからんとこもあるけど・・・

  私も文章や思考がクネクネしてまして・・・非常によくわかるって感じで思ってるんです。

鷲田 いろんな、ビビン!ってくる文章が何回もあって。哲学の本って、なかなか全部わからへんのですよ。正直言うて難しい。けど、メルロ=ポンティを何回も繰り返し読めるのは、なんかよくわからんけど、すごいビビン!ってくる一句が入ってるんです。それでわからんでも食らいつきたくなる。

  その哲学的思考でね、メルロ=ポンティの求めてるところっていうのは何か。ヒントになりそうなこと、無いかって思いながら、本読んだんですけども。メルロ=ポンティの論っていうのは、だいたい大まかに言ってどんなことなんですか? 読者にとって非常にわかりやすく。

鷲田 うーん。難しい問い投げかけられた。キーワードはたぶん運動やと思っています。「見る」にしても、からだ全体の、運動の中で人はなにかを見てるのやと。普通はみんな眼の機能など感覚器官の問題とか、動きぬきで、刺激がどうのこうのって考えるでしょ。そういう見方とらないで、聞こえる音でも受け身にみたいに思えるけども、実は、選びに行ってるわけなんです。例えば電車の中で、あんな大きい騒音の中ででも、隣の人とひそひそ話し出来るのは、それはやっぱり取りにいってる。
 だからメルロ=ポンティはいつも、一番受動的に見える感覚ですら、運動としての体の中で起ってるという考え方するわけです。
 要するにメルロ=ポンティは、走りながら、歩きながらでも、人間の体が運動の中で定点を掴むっていうか、そういう運動の中でなにかを、とらえる形でやっているので、決してその、網膜に何が映った、鼓膜どれくらい動いたとか、そういう話でないところが、僕はメルロ=ポンティの身体論とか、知覚とか感覚論の一番大事なところと思ってるんですよ。
 人間は、ものを見たりするとき、キョロキョロしたりするし、姿勢もモゾモゾする。モゾモゾするってことから、何かをピユーって掴みに行くことまで含めて、知覚や感覚はたえず動きの中で起こっているということでしょう。

  そのことを通じて、その運動を内面として。内面的に動かない運動と言うんですかね。

臨床哲学って?

 臨床哲学っていうのはいったいどういう分野なんでしょう?

鷲田 哲学は大学の中でも一番アカデミックな学問のように思われるんですけども、僕に言わせると、一番素人っぽいもんでもあるんです。
 哲学って対象を限定しないでしょ。政治学やったら政治、物理学だとものの運動とか物質の組成。みんな対象領域が決まってる。でも、哲学だけは対象に限りがない。宇宙についても哲学あるし、体についてもあるし、アクビの哲学かてあるわけで。哲学はものを考える作法のことで、なにかの専門領域やない。哲学は、自分の生きる場面で起こっていることについて、きちんと論理的に何が問題か、問題そのものをはっきり提示する総作業と思っているのですよ。だからまず、書斎の中でなくさまざまな問題が発生している現場に自分も一緒に行って、そこの話しの輪に加わる。ただし、現場の人が喋ってることに、専門の知識を外から持ち込んだり一切しないで、そこの人と同じ言葉で、いろいろ喋りながらね。
 例えば、僕一番これは変やと思ったのがね、看護の世界で、今まで看護する側の立場ばっかり言ったけど、看護される人の立場になってやるのが本当のケアだと言われるようになっています。で、患者さんの立場になっていうのは、まず患者を理解すること。しかも患者として理解するのやなしに、人としてね、「全人的に理解する」ということを、今の看護学で教えるそうです。そこで僕は「えっ? 自分のことも分からへんのに、他人のことも分かれって、そんな難しい難題を課すんですか。それも患者さんの思いじゃなしに、全人的にその人が人としてどんなふうにものを感じたのかって、そんなこと理解せんと看護が出来へんのですか?」いうて、あほな問いを出したりするんですよ。そのことでその人らが当たり前として、疑わなかった前提があることが見えてきたりする。そうすると、また違うように問題をとらえ直さんといかんと気付いて、ちょっと議論の流れが変わってしまうんですよね。そういうことをやるんです。だから、答えを出すなんて全然しないですよ。

  病院とかに行くんですか?

鷲田 そうです。医療現場や小・中学校は、生きることのあらゆる問題が出てくるので、よく行きます。
 小学校では例えば、ちゃんと並べとか遅刻するなとか言ってるけど、子どもはなんで遅刻したらあかんのですか? とか、なんでまっすぐ並ばなあかんのですかって言われたら、それをちゃんと答えることは、ものすごく難しいし、誰も答えられへんけども、学校は、それを当たり前のこととして教えないといけない。これは実はたいへんなことです。人間はみんな仲良くしないといけないんだと言っても、それは何でですかって、昔の子どもなら問わなかったような問いが出てくる。先生に言われたら恐いし従ってたのが、このごろの子は、何で全員一緒に仲良うせなならんのですかってつっかかっていくより、無理しないで好きなことやってるほうが楽しいじゃないですかって言う。そんなときにも、どう答えたらいいんやろうって、このごろの小学校の先生って怖がっておられる。
 看護の現場行くとね。看護師さんが困りはるのは、こんなしんどい治療だと、早く殺して、もう治療せず死ぬほうがいいわって言われたときに、看護師さんはどう答えるかってことですよね。それは誰も答えられない。そういうときどう接したらいいのかは、ものすごい大きな悩みですよね。そこには公式というものはありえない。最終の答えがないまま、それでももだえるように考え、悩み、外の知識によってではなく、現場の中で道筋をつけなければならない。
 そのプロセスに哲学としてかかわっていくべきだと考えているんです。

  そういうことで、哲学を持ちださずに考える…。

ばらばら感をつかんでゆく

鷲田 さっきの「立つ」ということに話を戻すと、ピンヒールっていうんですか、あれをこの間学生が履いてきて、僕も試しに履かせてもらいました。爪先だけしか接触してないので、立つことに対して、脹脛からお尻や背骨までの、筋肉の配列を変えてしまうくらい筋肉が動員され、だから姿勢が良く見えるんでしょうね。でも、ある意味じゃものすごい不自由なものです。歩きにくくって。立ってるだけでも苦痛な。どうして、わざわざ、相当練習しないとかっこよく歩けないものを、履きたがるんでしょう。ピンヒールまでいくと、逆に爽快感すらある。一寸前までの自分の体をキャンセルしていく気持ちよさと、自分をぎりぎり張り詰めさせていく快感。それは魂の快感やと僕は思うんですけどねえ。

  地面に近いことが、ただの解放っていうものではないんですよね。だから、解放の快感では、やっぱり魂っていうのは、なかなか分からないわけなんですよね。

鷲田 ほどくだけではねえ。

  ええ。それは気持ちが楽な方向に行ってしまうだけで、かえって自分っていうものがわからないていうか、他者との必要も関係も分からん状態やと思うんですよ。だけど、寝ているものの、その解放ではなくて、一回こう身体が、ばらばらになっていくような感じ。床面とか地面とかいうことを、問題にすることによってね。それは、寝たきりであっても一緒なんですよね。寝たきりの姿勢をずっととってるから、それは、もう掴んでるやろうではなく、そこでのその地面と身体の、解放ていうよりも、ばらばら感っていうものを、もっとこう掴んでいかないと見えないわけなんですよね。
鷲田 ばらばらを、ばらばらとして使う。

  そうなんですよ。だから、手の指の先と、肩の使い方があって、それが全然違う方向に使わないと、だめっていうのもあったりしてね。それは一瞬一瞬に体が選んでいくわけなんですよ。それから、べちゃっと寝ている状態で気持ちいいだけでなく、その重力全部感じるものを、いかに分解していくか。分解がそれぞれの単独になってしまうくらいの。身体って本当は自分のものやないと思うんですよ。身体自身が掴んでるものに、かえってわたしらは教えられなあかんて思ってるんです。だから、障害があって日常生活では動けないけど、不自由ではなくて、舞台の上でなにか身体を表現しようとしたときに、初めて動きというもの、自分のその身体感を取り戻すいうか。だから、じっとしているということも含めて、それは、ばらばら感であり、統一であるっていうその両方でないと。そのへんで、見る方のその見方が、どういうふうに変わってくるか、もっともっと具体的な日常的な感覚に正直になるべきやと思うんですね。

鷲田 だから、こないだ公演のあったウィング・フィールド。一人ずつの客席やなかったから、見ることに集中してるけども、隣同士と触ったりとか窮屈やったりして、でも最終的には、僕はシアターで観劇するスタンスでは、やっぱり見る方は見ることに限定されてしまって、舞台に起こっていることに、うまく感応するいうか共振することが起りにくいと思う。どうしても、視覚的になってしまうと思います。窮屈やったし、またそれが楽しかったけど、更にね、寝転んで見る人が出来るような場所やったら、その場でまたもぞもぞやり出すかもしれません。来てる人が同時にごろごろしだしたりとか、或いは真似しだしたりとか。いわゆる劇場形式では、観客は起きて見てるわけですから、舞台の人が、今自分の身体というものを感覚してらっしゃる、それの感覚とはそれこそ違う。立つ、座るっていうか身を起こすことに全部動員されつつ、こうやって見てるんですもんねえ。ステージの体と客席の体がベクトルとしては直交している。観る方も横になると・・・ここ(態変の稽古場、メタモルホール)だったらそういうこと起りません?

  え-、そうですねえ。見てるほうとしては思わずやりたくなるでしょうけど。実際に寝っ転がり出す人っていうのはいないですよねえ。その体験は、そういうふうに、その位置を変えるっていうことだけでは、ないと思うんですよ。要するに相手と同じ位置をとるからということでは、ないような気がするんですよね。それはそれでまた、見ている側のその位置のとりかたっていうことを、思ってしまうと相手の持っている、厳密な世界観みたいなことが伝わってくるかどうかっていうのは。体をちょっと、位置を変えるなり体がダルいからっていうようなことになってしまうわけなんですよねえ。

空間全部を転がる世界へ

  身体っていうことのとらえかたで、相手がどういう位置にあっても、観客ということでの自分の中というものが、その心とか魂としての違いは、そんなに大きいものなのか。例えばね、シーン作るときに寝たきりがごろごろやってるところっていうのは、あの『碧天彷徨』という作品のなかで作ったんですよ。で、その寝たきりのごろごろは、ステッキを持って山高帽的なものをつけて、転がってるんですけども、それは、「ゴドーを待ちながら」の中に出てくる…、あの紳士ですか。

鷲田 ポッツォです。

  その紳士、そこだけその人物として出したんですけど。だからこう、転がりながらどっちがその地面か分からない。という感覚で転がってるんですが、足の方(壁または奥の方)が地面のようにも見えてくる。ただ、ごろごろごろごろするんですよ。そのイメージは私にとって、そこの床だけじゃなくて、壁も天井もごろごろして、でまた横の壁に戻って来てっていう、そういう空間を全部ごろごろしているイメージに見えてくるんですよね。砂漠のような設定なんですよね、あの台本では。その非常に乾いた砂漠の向こうから、そういう人物が急にやって来て、またこう砂漠の山の向こうに消えていくわけなんですが、消えるっていうのが実はその永遠に続いてる、ごろごろの中で、上と下っていう感覚が変わってくる。そういうシーンとして、実は立ってる者の立ってる演技だけでは絶対見えない転がる世界、寝っ転がるごろごろの楽しさと、恐ろしさっていうふうに、態変の作品を見て言いはった劇評家がいるんですけども、そういうものは、伝わるところがものすごくあると思うんですよね。

鷲田 ごろごろ回転していくっていうのは、例えば観客がこっち(客席)から観るんじゃなしに、例えば上からもし観たら、ダンスの人がクルクルこうステップ踏むのと変わらへんしね。だから、それを上から観るか、或いはダンスだったら、横から見てるのとは、結局、実は同じことやっていう意味はどこにあるんでしょうか?

  他の作品の中で、もう一人、前に話した木村年男っていう、森永(ヒ素ミルク被害者)の役者なんですけど。あの役者が非常に広いステージの中で、たったひとりでものすごいぐるぐる回るシーンがあるんですね。そのときに、やっぱりとても目にも留らないくらいの速さで彼はステップを踏んでた。いう劇評があったりするんです。

鷲田 4回転ぐらい? フィギアスケートでいうと。

 そうですよね。その寝ている身体っていうのが、寝ている身体だけには見えない。寝ていることの全部が見えてくるので、寝ているのか立っているのか座っているのかが、観客側もどうでもよくなっていく。そういうことが、確かにあるわけなんですよね。

鷲田 観客は別に座ってたって同じ意味で一緒なんですね。なるほど。今の説明よく分かりますわ。

  要するにその時の立ってる者と寝ている者が共存したとき、そこでの競合の仕方ですよね。で、観客側っていうのがそこで何を観るかっていうのが、ものすごく頭の中がごちゃごちゃにさせられるというか。そういうのを、目指してるんですけども。

鷲田 じゃ、立ってる人っていうのは、ある種、大きなカミを設定したらごろごろに見えるケース、逆のケースもありますよね。

  そうです、ええ。

鷲田 それなんか結構おもしろい、なんかくらくら実験ですね。

皮膚感覚が観客に届くか

  わたしの皮膚感覚っていうのは、皮膚からこう立体にいろんなものが繋がっていくような感じですよね。だから、内蔵の襞っていうものが外に出てくる。空間の中にそれが、ものすごい重層に一枚の壁であったり、直角であったり、曲線であったりっていうことの、皮膚感覚のものっていうのが観客の方に届いていかないかと。

鷲田 ごろごろしてたら、体中が皮膚感覚で床を絶えず感じてるわけなんですよね、回る感覚もあるのに。ステップ踏んでクルクルする、その時にやっぱり立ってしまうと、ここの皮膚感覚っていうのがほとんどゼロになってしまうんですよね。これはもったいないこと。

  足の裏だけなんでしょうねえ。爪先とか。

鷲田 空気と結構触れてるはずなのにそれを感じない。立ってのステップの場合、そのこと自体の感覚がものすごく鈍くなってしまって。

  だから、立つだけの総動員というもので、必死になってしまうけど、でも本当は皮膚感覚あると思うんですよ。だから、空気の密度を感じながら身体で、地面と空間のどっちが空間かっていうとそれは両方空間と違うかなと。
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