何がどうなっているのか分からないままにすごいと思ってしまう芝居というものがある。と、いっても不条理だとか、実験だとかいう分からなさを前提にしたものではなく、唯こんな風にしか表現できない、という意味での強烈な説得力をもった分からなさ。僕は、演劇というのは途轍もない謎が仮に、ほんの一瞬役者の肉体を通じて現れくるものなのかもしれない思う時がある。それが実感できた時の至福間。そんな時が年に何回かある。何回もあるのだから僕は幸せな人間だと思う。そんな幸せを年末に味あわせてくれた未知座小劇場の『大阪物語』にまず感謝。
未知座小劇場のお芝居を観る時は、いつもストーリーなんて端から意識しないことにしているし、実際できない。だから、その場その場の役者の勢いだけを楽しんできた。身体と言葉の向こうに何時か見た事のある景色が広がる。納得だけできてしまうのだ。そしてそれでも納得のできないなにかが溢れ出てくる。もっともチラシには「無駄は演劇行為たりうるか?」とあらかじめ問題提起がなされている。無駄を演劇にしてしまう未知座には脱帽。
未知座には、誤解を招く言い方かもしれないが、一昔前の前衛・アングラといわれていた芝居のパターンを関西で唯一継承している頑固な集団だというイメージがある。と、いってもただ、情念をぶっつけ、作品そのものの破綻もまた表現であるという、使い古された枠組み=居直りで彼らを語ることはできない。未知座はずいぶん洗練されている。計算された混沌。実際には物語れてしまう幾つかの物語を敢えて韜晦している様にも思える。確信犯だ。そう、物語る可能性を禁じ手にしてしまっているのだ。しかも、物語る楽しみは残しているのだから始末が悪い。曼珠沙華と打上花火という色のある女優の存在そのものが物語を紡ぎ出している。劇中で展開されるタップダンスもなかなか秀逸なものだった。だから、物語と未知座小劇場との関係をアンビバレントなものとしてはっきり提示する必要はない。そんなことをすると野暮になるということを彼らは知っている。それは最後のアングラモン(彼らにお叱りを受ける言い方なのかもしれないが)の意地と粋のダンマリで決めればいい。そして決まったのだ。
まずは儀式の始まりを象徴するかのように散米がなされる。米の力でその場を清浄化しようとする古代からの風習。なにかこれから始まるめちゃくちゃな物語に対して、まず最初に謝っているようにもみえる。そういえば、日本の中世の文化というのは言語的文化というよりも民衆的基盤に根をおろした身体的パフォーマンス文化であるといっている人もいる。(松岡心平「宴の身体」岩波現代文庫)そんなことも思わせる導入部。
最後のシーンで舞台にいつくもの枕が落ちてくる。このシーンは、マクラ=話のイントロ部分だけで構成された落語に女1(打上花火)が挑戦しようとする設定の延長なのだが、そのお話のマクラが具体的な枕となって狭い未知座小劇場の舞台に落ちてきたのだ。クスクスとここでは笑ってしまうしかなかった。どこまでも転がり、滑っていくマクラだけの物語。
しかし何かを伝えようとしていない筈はない。はっきり言ってこれは、大きな声で言うのが恥ずかしい言葉になった、死語=私語になったカクメイの、観客に対して提出されたレジメなのだと思う。もちろんレジメというのもマクラの一種なのだけど、完成されたものに対する徹底的な反抗=いくつかの可能性を捨てる事への留保。常に別の可能性=未来を用意しなくてはならないという生理的な欲望=永久革命への希求をここまで追いつめた、あるいは逃亡させたモノガタリ。そんな未知座の舞台というのはやはり希有な存在だし、30年間かけてここまで磨き上げた未知座の存在というのはスゴイ。では、なにをどう革命するのか、実は具体的な唯一の物語としてそれははっきりと示されている。日本国の国歌をインターネットラジオのリクエストベストテンで選ぶことと、関西語を標準語化するということ、別の国家の独立というマクラが最初と最後に挿入されている。打上花火の歌う『レット、イット、ビイ』と『ヘイ、ジュード』はなかなか感動的だ。そして常に二位の存在としてあるのが『六甲颪』その次が『河内音頭』、非常にベタで分かり易い。みんなが知っている名曲と、阪神タイガースの応援歌。それだけ、でも誰かさん長寿を言祝ぐ唄よりは百万倍いい唄だ。しかし、それもマクラ、マクラ以上に語れば、タイガースもスターリンも長寿を祈られた誰かさんもみんな同じ穴の狢になってしまう。大きな物語に無意味すれすれの役者の身体が反乱を起こすのだ。インターネットラジオというのは変な言葉だが、そこに昔懐かしいハム無線が混信してくる。それも一〇年後に六〇歳のお爺さんになる予定のブラジル移民が一〇年前に送った電波だという。一〇年前のハム無線がインターネットに混信してくる、ともかくコミュニケーションは過去と未来を繋ぐ。一〇年か
かってやってくる電波だとしたら過去だけではなく一〇光年離れた遠い星からのメッセージなのかもしれない。「美しい沈黙と引き換えに、帰るべきロマンの通路は取り払われてしまったのだと。未だ命名されず無名性の中で佇む美しい憂愁の沈黙よ、大いなる流れとはかくもしたたかであります。
CQ、CQCQ、いまだ出会わぬ美しき憂愁の沈黙よ、こちら7MH、出力5ワット、試験電波発信中」打上花火が切ない一〇年後に六〇歳になる幼いみっちゃんのブラジルのお爺さんのメッセージを読み上げる。帰るべきロマンがない、語るべき物語が混信する。様々な可能性としての未来が提示される。それに対してもいい加減な返事をする、または無視をする打上花火。しかし名付けようのない「ロマン」の香りは漂っていた。
曼珠沙華の弾くキーボードに合わせて彼女が歌うビートルズの名曲だけが具体的に答えの様なものの代用をしている−あくまでもカラオケのようにだが−ここではビートルズという物語が引用されている。だからその後に、唐突に英語とハングルと手話によるマクベスが演じられても抵抗はない。王を殺す、そのまま革命。だがこの王は「物語」という名の別の、王の中の王なのだ。英語が聞き取れるか、聞き取れるかはあまり関係ない、ましてハングルをや。舞台の据えられたビデオモニターには日本語の字幕。寸断化されたマクベスは劇的な言葉の断片しか提示することができない。英語やハングル、手話が理解されたところで断片でしかないマクベスは、その物語を知っている人以外には単なる詩的=私的な苦悶でしかない。けれど、ここではそれで十分なのだ。マジでやるマクベス、巫山戯て演るマクベス、ともかく王殺しの物語。物語を殺そうとする試み、物語に成ろうとする野望。そして物語の逆襲。
平行して大阪のおばちゃんの物語がある。大阪のおばちゃんの日常の物語を象徴する買い物籠から取り出された絹ごし豆腐と油揚げ、どうすれば豆腐の角で頭を打つことができるのか、なぜ油揚げを河内では「黄金のゾウリ」というのか、阪神ファンの酒のアテとは、無駄なおしゃべりが続く。そんな中に
女2(曼珠沙華) ホンマ、ホンマとゆうんやない。国家が、国家足りうる骨格としての属性とは。
女1(打上花火) 一つとして軍隊。 女2 さらに! 女1 一つとして貨幣。 女2 さらに! 女1 一つとして権力。これらの鉄扉面を剥ぐとそこには恐怖という二文字が静かに眠っている。これをロマンという。
女2 ……模範的な解答ありがとうおました。どんな本読むとそんな骨董品みたいな、呪文に出会うんだす。天牛にかてそんな古本もうないで。
女1 なんか息苦しいわ。
こんな会話が突然挿入されたりもする。
しかも、女1は女2に訪問されてしまったゴドー(勿論ベケットの?)にされたりもする。なんと大阪のおばちゃんはおとなしくゴドーを待ってなんかいなかった。でも訪ねたところでどうするアテもないゴドー(後藤さん)、訪ねられた方も迷惑だ。挙げ句の果てに豆腐と薄揚げで「黄金のゾウリ」を作り、豆腐の角に頭をぶつけるだけ、しかしどうしてこんな訳の分からない話に納得できてしまうのか? 不思議な感動を覚えるのか。
勿論、いろいろと深読みはできるのだけど、それはしない方がよいのだろう。ロマンの行方ばかりを気にしてもしかたがない、芝居そのものが狭い未知座小劇場(八尾の劇場の方)の空間の中で暴れまくっていたのだから。
最後にいよいよ大阪の国歌としてビートルズの『ヘイ・ジュード』が唄われ、マクラが降り注ぎマクが降りる直前の感動的な台詞を引用して終わりたい。
女1 いえだからこそわたしはあなたに宣告します。もう帰るべきロマンはないのだと、美しい沈黙と引き換えに、帰るべきロマンの通路は取り払われてしまったのだと。未だ命名されず無名性の中で佇む美しい憂愁の沈黙よ、大いなる流れとはかくもしたたかであります。だから、気楽にジャンプ。そして静かに一言「独立します」。これですべてが始まります。
女2 大阪のおばちゃん聞こえますか。
追記:この原稿を書き終えた後で犯罪友の会の若手公演『改訂版 白蓮の針』を観た。こちらは濃厚で緻密に構成された戯曲。武田一度が紡ぎ出す物語が若い劇団員の演技の力を思いっ切り引き出していた。ある意味で未知座の対極にある演劇空間なのかもしれない。でも、役者の肉体が語り出す物語が一番いい物語だというのは共通項だと思う。芝居にはいろいろな形が在る筈だ。また、そうでなければいけないのだ。
台詞の引用は、未知座小劇場第38回拠点興業+鹿狩道三追悼公演上演台本『大阪物語』大日本演劇大系第五章
Composition16 著 者・闇黒光 発 行・未知座小劇場を使用させて頂きました。