情報誌IMAJU vol.39
特集「マレーシアで態変が狼煙を挙げた」

革命の道のり ―プロジェクト3年を振り返って―
川喜多綾子


 「泥と泥が合流するところ」-クアラルンプールという地名にはこういう語源があるらしい。実際に街の中心で、クラン川とゴンバック川という2つの川が交わっていて、合流地点には美しいイスラム寺院が建っている。今ではきちんと河岸工事されているが、かつては泥川だったのだろう。
 その名が象徴するように、多数の民族が、この熱帯の半島にある都市で交わり、それぞれの宗教を信じ、それぞれの料理を食べ、それぞれの言語を話す。多数派のマレー系が優遇される政策(プミプトラ)がしかれ、様々に功罪はあるものの、基本的には平和的に共存できているのは、交わる地と人びとが導き出した知恵の賜物なのだろうと思う。

 そういう意味では、ここで「態変 in マレーシア」プロジェクトができたのはラッキーだったのかもしれない。このプロジェクトは(実は最初からこういう企画名が付いていた訳ではなく、そう言い表すしかなさそうだと途中からじわじわと定着した)、文字通り一から「態変を創る」ことであったが、その過程には、実に様々な要素を巻き込まなければならず、そしてその各々の要素が自転していく必要があった。誰か一人が全てを采配できる域は越え、全員の知恵と努力によってのみ前進できるものだったからだ。
 もちろん、いくら知恵に満ちた土地柄とはいえ、プロジェクトの進行は容易ではなかった。

 私たちはプロジェクトの目的を、種を残すこと、とした。身体障害者が身体表現をしようとする種、それをサポートする黒子の種、芸術として公演する種、活動を進める筋となる考え方の種-いずれ芽が出てほしい、という願いを込めて、まずは態変が蓄えてきたノウハウと考え方の本質を整理する作業から始まった。

 これは、とても頭の痛い苦しい作業だった。日本と文化の異なる地で翻訳されてもブレない芯を探り出さなければならないのだが、特に黒子について、普段公演の現場で自分たちの身体で動いていることの根拠のほとんどが、「何となく」か「だいたいの感じで」に基いてしまっていた。そのまま語ったのでは意味不明である。
 この論理性の無さでこれまで通用してきた理由のひとつは、日本の態変の場合、黒子は役者がその必要性から長い間かけて作り出したものだからだろう。役者が先にいて、そのペースが黒子の仕事の基本にあり、特別な場合を除いて、役者へのアプローチを真剣に考えなくてもよかった。邪魔な動きをすれば、「うるさい」と役者が言ってくれるからだ。
 しかし、マレーシアではそうはいかない。役者自身もまだ役者になる途上だった。「(まだ)ただの障害者」と私たちは彼らのことを呼んだりしたが、つまり役者は障害者である自覚も誇りも持てず、ただひたすら諦めて健常者の言うことを聞いている。当然、健常者に向かって要求などしないし、健常者の顔色を見て返事をする。そんな状況では、稽古に「黒子です」と健常者が居るだけで、役者にとって影響力を発揮してしまう恐れがあった。
 日本と同じプロセスを踏むため役者が育つのを待っていては、3年では足りない。同時並行で、障害者には役者に、健常者には黒子になってもらう取り組みを進めなければならなかった。そのために理論化が求められたのである。

 黒子には自分自身の存在への自覚を迫り、無自覚に居られては役者にとっていかに有害なコントロールとなるか、と話した。そのワークショップに参加した全員(3年間で4〜50人位)が理解したわけではないだろう。自主的に去った人も、去ってもらった人もいる。人材は喉から手が出るほど必要だったが、方向性を共有できない人と進める悪影響を回避することの方がはるかに重要だった。

 その後も数人の出入りはあったが、役者が固定し始めたのは3年目の1回目訪問(2006年7月)である。翌年公演する作品の台本稽古に入っていった。役者リーダーであるマリヤニとは、05年1月振りの再会であったが、その間就職し、結婚していた。1年半前の金満里との出会いにより、何かが目覚め、生き方を変えたという。何と、知らないうちに種は芽吹いていたのだ。
 役者としては、皆まだまだであった。これがあと2回の短期訪問で、観客に見せ得るものになるのだろうか、と不安を覚えた記憶がある。動きはばらばらで、羞恥心が先立ち、観客よりも共演者のことばかり気にしているようだった。

 別の深刻な不安は黒子であった。予想していた通り、黒子確保は難航した。ボランティア活動は盛んではない上、平日昼間の稽古に参加できる時間的余裕のある人はなかなか見つからなかった。その時の黒子は、企画責任者でもあるナラともう一人だけだった。ナラは週2回の役者稽古に立会い、別の仕事をこなし、黒子確保に奔走する日々であった。こちらは海を隔てて、Eメールでしか状況は見えてこない。ナラに聞いても、国際交流基金に問い合わせても返事が来ない日が続いた。恐らく状況は何も変わっていないから連絡しなかったのだろう。でもこちらはそれすらも分からない。さらにもう一人の黒子の参加をめぐり現地で問題が起こり、黒子確保は後退すらしつつあった。企画の流れは、不穏な音を立ててぶつかり止まり始めた。
 3年目2回目訪問(2006年12月)は、5日間の予定で、稽古の途中経過チェックと応用編黒子ワークショップが当初の目的だった。しかし、直前にナラももう一人の黒子も日程が合わず参加できないと知らされた。目的の半分が無意味になり、稽古も役者だけで進行できる段階は過ぎていたため、黒子立会いなしでは、稽古することが無駄になる可能性があった。
 企画は暗礁に乗り上げてしまった。公演4ヶ月前にして、最悪の事態である。現地に訪問後も事態は収束しない。こちらは責任の所在が見えないことを指摘し、現地主催は日本のやり方を押し付けられても困る、と主張した。問題はすりあってさえいなかった。
 同時に稽古は進めなくてはならなかった。役者はすごい集中力をもって演出の指示を聞き、身体をスポンジのようにしてどんどん吸収していった。明らかに皆の顔つきが変わっていった。黒子は2名の新人が来て1日講習を経て稽古に参加した。最後まで力を発揮してくれたロナがそのうちの一人だったことは幸運だった。昼間は彼らと共に稽古し、夜は連日重暗い会議が4日間続いた。
 こんなに役者は生き生きと表現を楽しみ、自立しようとし始めているのだから、企画を頓挫させるのは許されないという思いと、私たちが妥協して理解不足の黒子によってコントロールされ、障害者が猿まわしの猿のように踊らされるのはもっと罪深い、という思いがせめぎあった。どちらにも転ぶことはできない、どちらも両立させるしかなかった。これ以外に通すべき筋は他にはないと思った。身体障害者が舞台に立つ限り、その舞台表現は妥協なしの最先端芸術でなければならない。それがこのプロジェクトの理想のラインであり、最低ギリギリのラインでもあった。
 ようやく眼前の霧の中から先が見えたのは、帰国の日であった。主催者との最終会議でそれぞれの立場性を整理し、目指すゴールのクオリティを再確認した。そして、急遽1月にもう一度黒子養成ワークショップを行うこととした。目指すラインをクリアするためには、準備不十分な健常者に役者を触れさせる訳にいかなかったからである。日本に戻り、正月を挟んだ1ヶ月、再び黒子の理論整理作業にかかった。解決には他にもっとうまい方法があったかもしれない。確かに日本のやり方を押し付けたところもあっただろうし、始まりはちょっとした連絡ミスだったのかもしれない。しかし、今思い出してもキリキリ胃が痛むこの座礁期間を経て、通すべき筋がはっきりと見え、主催者と共有できたことは、スマートに事が運んでしまった時よりも、企画の厚みと底力を格段に増す結果となったと、今思う。

 12月を境にプロジェクトは再び動き始め、勢いを増していった。川は合流し、大きな本流になったのである。
 1月の黒子ワークショップでは、ナラとロナの他にぺトラとアリソンという新人が参加し、この後この4名で役者稽古と黒子育成を担っていってくれた。役者は、シャが遠い実家に帰ってしまうというハプニングがあり、役者仲間が奪還作戦を打つという行動に出た。重度障害のワニは黒子のぺトラを泣かせ(!)、寝たきりのシャウルは演技の行程を全て把握し、目と指で他の役者に指示を出していた。いくつかの新聞に大きく記事が載り、3月のワークショップには14名もの希望者が集まった。

 そして最後の3週間の稽古が始まった。

 稽古は『記憶の森』の作品づくりであり、同時に、障害者がプロ意識のある役者として、さらに自立するプロセスでもあった。重度障害の役者対象に徹底した話し込みを金さん自ら行い、稽古では容赦なく受身の姿勢を正された。役者たちは全身の神経で、その言葉を理解しようとし、自分たちの求めるものを模索した。
 1週間後、役者達は、衣装合わせで細かく不都合の修正をリクエストし、演出の分からないところは質問し、黒子に抱え方の指示を出し、鏡張りの稽古場では自分の演技をチェックし磨くようになった。もう「ただのおとなしい」障害者ではなく、こだわりの多い役者であった。
 3週目に入り、印象的な出来事が続いた。ある日、最重度寝たきりのティアラが送迎バスを待っている時、私に話しかけてきた。これまでの彼女は質問すれば答えるが、自分から話しかけてくることはなかった。以前、スタッフのナラが、ティアラの父親が運転する車に同乗し、ティアラと雑談していた時、父親が驚いて「ティアラと会話ができるのか?」と言った、と話してくれたことがある。言語障害のある彼女の発言は言葉とは認められない環境で、ティアラは20年間育ってきていた。そんな彼女がその日、外国人の私を見据え、何度も聞き返されながら、その度に全身に決意をみなぎらせて、「態変をもっと学びたい」と言ったのだ。
 別の日の稽古後、ワニが、マレーシアで態変の仕事をやらせてくれ、と金さんに直談判にきたこともある。その時、彼女は「これまでのような退屈な人生はまっぴらだ。自立したい。」と言った。
 四肢欠損のエミは、新聞記者にインタビューされ、「日本が僕らを見て才能を見出すんだから、マレーシアだって特別な才能のある者として僕らを見ることができないはずがないだろう?」と挑発の効いた発言を全国紙上でぶちまけた。
 役者は確実に、自分自身の深いところから変化していた。健常者の社会が作った障害者像を生かされてきた彼らが、その事に気づき、はめられてきた型をぶっ壊し、自分自身の生き方を創り直すというプロセスが、そこで起こっていたのだ。発せられるエネルギーは正直、怖いくらいの迫力だった。

 それは関わる健常者スタッフに伝わった。黒子も技術者もマネジメントもいい加減な仕事は許されない空気に満ちていた。そして、誰しもがその空気を楽しみ、完成度を上げようと貪欲になった。
 伝わったものとは何だったのだろうか。障害のある役者が必死で頑張っているから、お手伝いしてあげようという同情心か。しかし、そういう表面的な思いは長続きしない。モップ文化の国で、床に手を付き雑巾がけを自ら進んでやろうとしないだろうし、美しく丁寧に敷かれたダンスマットの下にほんの小さな小石がはさまっているのに気づき、テープの貼り直しをしようとはしないだろう。おそらくスタッフたちは、稽古で役者の身体表現に魅了され、舞台上でベストな演技を見せて欲しいと願い、そのために自分たちに出来る限りのことはする決意で臨んでいたのだ。さらに、最近よく主張するようになった役者に直に触れて、障害者との新しい関係を心地良いと感じているようだった。これまでの障害者像-「できない人達」という蔑みや「可哀相な腫れ物」への恐れ-は、とても窮屈に自分自身や社会を縛っているかということに気づかされたのだと思う。ここにも大きな変化が起こっていたのだ。

 この間の稽古で金さんがキーワードとして持ち出したのは、「革命」であった。芸術からの革命-普段使えば大仰なこの言葉も、プロジェクトの現場にはぴったりはまりつつあった。3年前からじわじわと革命は起こり始めていたからだ。一つの舞台作品を創る過程を通じて、障害者の生き方に革命が起き、健常者社会の中での関係性に革命が起きつつあった。現場に溢れていたエネルギーは、革命のエネルギーだったのかもしれない。

 「観客の多くは私達の表現を理解しないかもしれないが、受けを狙って自分達の表現を迎合させてはいけない。自分の表現に誇りをもって演じきることが、プロの役者のやることだ」。革命というキーワードに続けて、金さんはそう指示をした。役者達は緊張と不安が押し寄せる中、蓄えた自信をこの言葉で確かめながら、勝負の幕開けを待った。

 本番は初日から、いや初日の第1場面から拍手喝采で大受けだった。2日目以降は各シーン毎に拍手が沸き、時にはシーンの途中でも手拍子、喝采に沸いた。「ブラボー!!」の声と共に、スタンディングオベーションが次から次に出た。エンターテイメント性のある中盤のシーンはもちろんのこと、序盤・終盤の抽象的な凝らした身体表現への反応も大きく、これまで観た事もない舞台表現を心からエンジョイした観客の熱い拍手だった。最終リハーサルを取材した、翌日の新聞には「Avant-garde theatre (前衛の演劇)」との大見出しで記事が載った。

 創造の現場で起こりつつあったエネルギーは、役者の身体を通って、観客に伝わった。1時間半の上演時間中に、様々な変化が観客一人ひとりの内部で起こり、何かが壊れ、新しい何かが生まれたのだと思う。それが、この感動的な拍手喝采となって溢れ出たのだ。

 泥が合流する場所で実現した企画らしく、強力なエネルギーを要し、発したプロジェクトだった。2つの流れだけでなく、いくつもの流れがこの3年間でぶつかり、交わり、幅と深さと勢いを増した。清流ではなく、泥であるところが、実に相応しい。クアラルンプールでは、まだ泥は流れ続けている。蒔いた種から出た芽の成長が原動力なのだ。そして、流れは日本にも続く。さらに太い流れにできる、という自信のエネルギーをクアラルンプールでもらったのだ。


かわきたあやこ 劇団態変制作
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