情報誌IMAJU vol.39
特集「マレーシアで態変が狼煙を挙げた」

金満里のページ 開花! マレーシア 障害者身体表現

 

  生きる糧となる芸術。態変ポリシーに掲げたこの理念をゼロからスタートして実現しようとする試みとして、マレーシアでのこの3年越しの実践があったのだと、今にして思う。

 私が25年前に立ち上げた身体障害者の身体表現は、誰も試みたことのない全く新しい角度からの革新的な身体表現として受け止められ始めている。それを、発祥の地日本から離れて社会的文化的環境が全く異なる外国で地元の身体障害者と共に創り上げてみることで、私の創る身体表現が人類的普遍性を持つことを立証してみたいという思いはあった。そのチャンスは欧米ではなくマレーシアからやってきた。それはつまり、そもそも身体表現を志すような障害者と出会えるのかという所から出発することになったわけだが、かえってそれが良かったのだと、今は思う。

 このプロジェクトの目標として私が置いてみたのは、

 A.私の創る身体表現芸術を、自分の意思で実際にやりたいと志し、自分たちで自転してその公演の実現を克ち取っていこうという障害者を掘り起こし、その意思を育てたい。

 B.私の芸術に触れることで、障害者、スタッフとして触れる健常者、そして観客の中に、既成の概念や価値観が根底から揺らぐほどの革命を起こしたい。

 

 マレーシアという国の様子を簡単に説明すると、マレー人・中国人・インド人の民族コミュニティが共存しマレー語・広東語・タミル語、イスラム教・仏教・ヒンドゥー教に植民地時代のなごりで英語・キリスト教を加えて四つの言語・宗教が飛び交いそれぞれの文化と生活様式を保ちながら一つの政治を選ぶといった、日本からは想像の付かない複雑な国である。マレーシアのすごい所はこれらのコミュニティが寛容に共存し、皆それぞれに違っていて当り前という空気があって、私の仕事にとってはむしろやりやすい環境だったと言えるかもしれない。つまり、身障者の持つ身体のペースや独特な動きを異質なものとして排除するよりは、身体表現としてこのようなものもあってよいと受け入れる土壌がこのマレーシアにあるのではないか。

 しかし、マレーシアの障害者は、それぞれの民族コミュニティに抱え込まれ、そこで面倒を見るべきとされている。この囲い込みによって、外部の者が障害者に触れることさえもがタブー視されている現状がきっとあるに違いないと仮説した。その状況の中でも、障害者を発掘するためのアプローチに際して、私にはマレーシアの障害者へ向けて語れる言葉があると考えた。その一つ目は、私の施設収容体験であり、重度障害者が置かれているその位置から捉え返しを行なう視点をそこで養ったこと。二つ目は、障害者自身による解放運動を牽引した経験。そしてそこから掴んだ、重度障害者の独自な存在をありのままに主張しつつ、全ての人が誰一人例外無くその重度障害者の介護を支えるべきだ、とする自立の概念。三つ目は、それらの経験を通して私に起こった自分の障害自体への目覚め、それが魂の身体表現を成り立たせ革新的な芸術を産み出すという目覚めである。このようにして私がこれまで経験し培ってきた全てを総動員する場としてこのマレーシアがある、今がその時だ、と思えた。自分の障害の身体の動きやペースを卑下するしかなく人生を投げてきた多くの障害者たちを身体表現芸術の世界へ誘うことから、その心の扉を叩くことになるのではないかと。

 

 2005年2月、プロジェクト実施の前段階としての現地調査。まずは、障害者と出会わなければ何も始まらない。詳しくは本誌バックナンバーに詳しく書いたが、当初はいったいどこに障害者が居るんだと暗澹たる気分に陥ったものだった。しかし現地調査も中盤になり、今回の中心となる出会いがあった。バンギ職業訓練センター(国立施設)で初めて、私の話を食入るように聞く30人ほどの集まりができた。そこでは社会復帰を期待できるのは軽度で歩ける者や手は全く健常といった障害者である。言語障害のあるCP(脳性マヒ)や上肢欠損や車椅子の障害者は社会復帰の見込みは殆どないと見なされていた。私の話を聞きに集まって来たのはその重度の人ばかりであった。そしてその中から、私に集中して一心に聞いていて特別なエネルギーを私へ放つ者に、マリヤニとサバリアがいた。マリヤニは歩けるCPで言語障害があった。彼女は強い眼差しと独特な雰囲気を持っているのだが、皆が居る所では決して声を発して喋ろうとせず、それが却って強い存在感となっていた。そして同じようにかそれ以上に目を輝かせ喰い入るように聞いている、特別なエネルギーを持つ両上肢欠損の女子がいた。話の締めくくりに私は全員に対してこのプロジェクトへの参加の意志を挙手で求めた。多くの手が挙がり、マリヤニもサバリアもその中にいた。しかし上肢欠損の女子は、絶対に拒み、私が直に誘いをかけてみても最後まで拒否し通した。興味の深さを示すに違いない彼女の瞳の力の強さと裏腹の頑なな参加拒否に、私の理解は混乱した。しかし考えてみれば、女は形として整っていなけてば表に出ては行けない、というマレー社会にある差別が卑下として彼女の中に刻印されてある、ということであると捉えられた。前向きなマリヤニたちの背後には、その女子のような存在が見えないところで沢山うごめいているのがわかる。

 ここでの感触から私の立てた仮説は、個として障害者が卑下させられ社会からその存在を隠されている、そのことによる深い喪失感が底に流れている、そして、本質としての新たな展開を渇望し希求している障害者が確かにいる、ということである。参加拒否の彼女のことは心に刺さったが、しかし、ともかく、とうとう、これらの大きな期待を待つ眼差しと、私は出会ってしまったのだ。

 この出会いによって、マレーシアでのプロジェクトを、現地の障害者が市中の劇場で観客を前にちゃんと芸術として認知される作品を演じる公演を実現することを目指すという線で進めていこうと判断し、受入側との会議で合意された。

 

 2006年1月、公演を前提とした身体表現ワークショップを開催し、障害者一般公募をかけた。スパスティックセンター(最重度CPの通所施設)からは大勢やって来た。しかし、前年の現地調査で企画続行を決断する理由となったマリアニたちとの出会いのあったバンギからは、事前のやり取りのミスがあったために参加が閉ざされてしまった。マリアニがまだそこに居るのかどうかさえも把握できない状況だった。海外の障害者とのつながりはこのように蜘蛛の糸のような危うさがある。

 ワークショップは根本的な考え方のレクチャーから入り身体表現の基礎のトレーニングから個々の障害者の身体からかけがえのない動きを引き出すところまで進んでいった。参加者の喰い付きはすばらしく、この段階で、身体表現芸術への捉え方の基礎がしっかりと作れた。身障者の身体表現として求められのは、

 ・身体の障害の捉え方を変える。 

 ・コントロールではない、障害自体の動き、にあるものに着眼する。

 ・かけがえのない生命の根源的なエネルギーこそが障害の持つ大切な表現となり得る。

 この講習を受けた障害者たちの変化は、目覚ましいものがあった。個人の中に生まれた、障害自体への肯定は、障害者としての在り方への自信に繋がる。真っ先に変化を見せたのが、寝た切りできつい言語障害のあるシャウルである。彼は、絶対に声を発しなかったのが、私の講習のレッスンの最中でも既に、どんどん声を出し話すようになり身体の表現も楽しそうに、いろんなものを試すようになっていた。そしてスパスティックへ戻った後も、自分の言葉で話すことを周りの者にやり出すようになったと、施設職員が私に教えてくれた。

 ワークショップに立ち会った健常者たちからも感動驚嘆の声が出るほどに、見たことのないしかし美しい動きが次々と立ち現れ、私はマレーシアで身体芸術の最前線に位置する作品を創り得るとの確信を持つことができた。とにかく、スパスティックセンターを拠点に週に一回レッスンを継続するという条件整備を手配して一旦帰国する。帰国後すぐに八方手を尽くしてマリヤニとサバリアがバンギにまだ在籍していることと参加の意志がまだあることを確認し、レッスンへの参加の道を手配した。

 しかし、舞台で表現をしたいとの意思表示は堅くても私が帰国した後の自分たちだけでのレッスンの継続には、中々根気が続かず一人抜け二人抜けと脱落していくといった具合である。砂漠にまく水の如しであった。

 7月に再訪、マリヤニとサバリアと、感激の再会を果たした。マリヤニは結婚してバンギを出、スパスティックで職員として働く、という大きな変化を遂げていた。バンギで出会った時の、眼差しの強さのわりには言葉少なく引っ込み思案で弱々しい感じからは、見違えるほどに自信を身につけて彼女は私の前に現われた。

 この回ではワークショップから初めて、いよいよ作品台本に向かうレッスンとすることが目的であった。徐々に、私から皆へ求めるものを、高度にしなければならない。しかし、前回選考したメンバーの多くが脱落してしまっていて、作品へ向けては、まだ役者の人材は不足であった。再募集のオーディションで役者を確保し、上演作を劇団態変の『記憶の森』をベースにしたものとし、身体から引き出した動きを作品として結実させていく一歩に着手する。シーンの絵柄や行程の基本を学び、次回までに自分たちだけのレッスンで充分に深めておくべき課題を与える。レッスンはスパスティックセンターとバンギそれぞれで 週一回ペースで継続するようアレンジした。この2カ所でそれぞれ週一なので週二回は、障害者の主体的な意志でレッスンが行われていたのは凄いことである。マリヤニが、その両方への参加をすることとなり架け橋として動いたことも大きかったといえる。

 12月にレッスンのための三回目の訪問。作品レッスンを障害者の域から役者の域へ。そして行程ができるところへ。場所が二手に分かれておこなってきた作品レッスンを、この回から統合し全作品の流れとして、全員が作品の全貌を掴むレッスンとなる。

 そこでこの回のレッスンが始まる前に、マリヤニへの話し込みを行う。全体の統合を速やかにリードしてくれるリーダーに、マリヤニを指名したいのだが、できるか、と話しする。マリヤニは、勿論やりたい、とやる気は充分なものであった。

 レッスン初めで、マレーシアの障害者たちの継続レッスンでは、驚くほど身体から良いものが引き出せるようになっていた。しかし2日目のレッスンで、レッスンをさぼるといった舐めた態度を出し始めた、一人の障害者を降板させるという私からのきつい判断が早々に起る。皆は、仲間の中から脱落者を出してしまったことを、自分たちの問題と受け止めた。そして、舞台へ上がることへの社会的責任は、役者をしっかりと意識することなのだと気付き出した。それには障害者仲間というところから役者仲間として捉え直し、良い舞台ができるよう互いに支え合うことで乗り切ることをやり始めた。

 私の創る身体表現を完成した作品として舞台へ乗せるためのもう一つの難関が、行程である。ここに役者に生まれた機運が、シーンの行程付けのおさらいやよりよく自分たちで動く方法など、ある時は会議で、ある時は動きで、自分たちで作品の行程を主体的にものにしていく動きが出始めたのだ。その上で、演出付けを受けられる状態まで、彼ら彼女らは目覚ましく進歩を見せ始めた。行程、という置き土産でこの回の私のレッスンは終え、帰国した。

 そして今年3月に最後のマレーシア入り、今回は一ヶ月間の滞在で、連日の稽古で作品を完成させ上演するのである。

 

役者たちはプロ意識に目覚めたか 

 前回までの課題は障害者を役者にすることであったが、今回の私の課題は障害者がプロの役者になるということである。私の身体芸術での役者としてのプロ意識とは、観客からどのような視点を浴びても、自らの表現を貫き通す意志力である。同情でしかない見方や哀れみの視線を感じたとしても怯んではならない。それを成し遂げてもらわないと、障害者が身体表現を舞台芸術として行なうことにはならない。

 初日から、檄を飛ばすハードなレッスンとなった。

 午前いっぱいを使い、プロジェクトの最初のワークショップでやった講義をきっちりとやり直した。そして午後から、いよいよの身体表現レッスンへ皆意気込んで臨んだ。その内容は、私の居ない間の課題として与え自主的に施設ごとで継続してきたレッスンを、一つの流れの作品として通して私に観せることからであった。通しとして成り立つ最低条件は、行程(役者の動き・出捌けといった舞台上での取り決めの手順)を把握しているかどうかにかかっている。その通しは順調に進んでいったのだが、終盤近くで、彼らの姿勢の根本的誤りを正さなければならない事態が明らかになった。全員が登場するシーンなのだが、そのシーンをどこで終われば良いのか解っていなく、誰からも疑問の声が出ないまま延々と演技をやり続けていたのである。それに対し、私は激怒した。私が前から観ている、という安心感のみで、終り方の解らないのをそのままやり過ごそうとしているんだろう、と。12月の一人の役者降板のエピソードを通して彼らの仲に「自分たちの公演を実現させるのは、他ならず自分たち自身なんだ」という気付きが芽生えたはずだった。にも関わらず、その後わずか2ヶ月間に役者たちはその時の危機感や気付きを忘れ去っている。

 少し厳しいかも知れないが、私が感じたその失望を、私は隠さずに彼らにぶつけることにした。何故、解らなかったら進行を止めてでも私に聞く、ということを誰もしようとしないのか。あなたたちがプロの役者として何をどこまで獲得した上で舞台に立つか、ということが問われている。金満里が何とかしてくれる、という考えは捨てないといけない。あなたたちが私を頼ったままで生ぬるい演技をするようでは絶対に許さない、と、各自の覚悟を迫る怒りであった。

 このようにしてレッスン初日からして、役者にとって甘えは許されない、といったきつい滑り出しであった。その結果最初の一週間はガンガン演出を付けていくことができた。役者たちは、ハードなレッスンを正面から受け止め、教えられることへの理解力と、それを表現に変える集中力を抜群に発揮しだした。私の演出を何一つこぼすまいと、物凄い勢いで吸収していく様は、演出家としてのやり甲斐というものであった。

 もう一つ、解決を迫られる問題として、楽屋入り後のことがあった。これは普通の障害者としての位置から、プロの役者として本番の舞台に立てる状態にまで、楽屋で準備を整えつつ良い緊張を作り上げ自分自身を仕上げていくプロセスとして重要なものなのである。障害者である役者たちは、身辺の介護を受けつつこのプロセスを通っていくのである。楽屋では受動的に介護を受けるのではなく、役者として舞台に立つ前の特別な介護としてやらせなくてはいけない。障害者自身が主体的に楽屋スタッフに迫っていくしかないので、障害者自身に自立の観点が必要なのだ。それを獲得させることが不可欠なので、私から直に、重度の寝た切りの役者を中心に、個人面談の話し込みをおこなった。自分を一人前の人間として認めさせること、そのような質を持った介護を相手にきっちりと要求できなければ、一人前の役者になれない。健常者から良く思われようとして媚びたりは決してしない。この先には、親や兄弟を頼らず全くの他人に介護をさせることを障害者自身が引受ける、自立生活というものがある。今回の公演に関連した一過性の問題としてにとどまらず、彼ら彼女らの将来の展望にまでつながっていく話としておこなった。

 

倒れる

 2週目に入り、声を張り上げての演出と連日の話し込みのせいか、とうとう私は扁桃腺を腫らして高熱を出し倒れてしまった。レッスンは、作品としての通しができ、何とか観客に観せられる最低ラインの行程が見えた段階であった。

 倒れたと言っても、午前を休み午後からレッスンを見に行くというペースであった。私が顔を出すと、役者の皆は心配そうに私の顔を見ている。小声で私が出す指示を川喜多が大声で通訳に伝えるといったやり取りで演出を進める。当初より演出の言葉を聞き漏らすまいとする役者の集中力は、熱いものがあったが、この件で余計に一生懸命になって、私が出て行くレッスンは役者たちにとってもより真剣なものとなった。演出を聞き逃すまいとする役者の熱い眼差しは、痛いぐらい私に刺さり、そして演出を付ければ付けただけ、即、身体への無駄のない表現としてどんどん掴みとろうとし伸びていくのに目を見張るほどであった。

 3週目に入る3月26日、公演を意識して役者には、観客の視点を意識させるディレクションを行なうことにした。

 1.今回の私の身体表現の舞台は、芸術にとっての大きな革命を起こすことになるだろう。

 2.しかし、やろうとする芸術が観客全てに理解されるというものではない。しかし理解する観客は必ずにいる。皆は、勇気と自信を持って、私の演出を信じて付いて来てくれるように。

 観客にすんなりと受け入れられる表現をしてみせることが舞台表現と捉えていては理解し難い、矛盾した事柄である。障害者である演じ手が、健常者である観客に対して、受け狙いだけを気にして媚びる意識で演じてしまうと、それは途端に猿回し芸になり昔の見世物小屋の障害者に貶めることになってしまう。そうではなくて、観客がこれまでの人生の中で染み付かせてきた価値観・世界観そのものを根底から変えさせてしまうような観せ方で我々の存在を観せていかなければならない。それが起こらないと、我々の表現する意味がないかである。それが芸術が革命を起こし、芸術の革命が起きるということなのだ。役者自身が一端舞台へ上がってしまえば、その矛盾を引受けるのは役者自身でしかない。それに値する存在として、舞台から観客と対峙する必要を端的に伝えたのである。役者たちの反応は、私の伝える一見矛盾したその内容に対して、動揺は一切見せず静かに深く頷くように、覚悟を決めるように、受け止めてくれたようである。

 しかし、いよいよ本番を迎える週の頭の4月1日(日曜日)から私は再び高熱を出してしまう。今回は咽が腫れている訳ではなく、どうもおかしい。公演を控え、万が一に備えて、夜間の救急病院へ行った。デング熱の可能性も考えられるので様子を見る、とドクターから言われる。初めて聞く病名だったが、デング熱とは蚊を媒介にしたウイルス感染症で、重症化すると全身いたる所から出血して3人に2人が死ぬデング出血熱になるという熱帯地域の風土病である。幸い私は出血熱にはならずにすんだが、罹り初めはいつ出血熱へ症状が変化するか経過を見守らないとわからないという。

 まさかそんなことはあるまい、と思いながら月曜日はとうとうレッスンを休み、解熱剤を飲みながら熱が下るのを待つ。が、下る傾向無し。

 

入院 

 4月3日(火曜日)

 もう一度同じ病院へ行ってみる。本当に、「行ってみる」程度の気持ちだった。それが、採血して結果が出る前から救急の時と同じドクターが診て、デング熱の可能性が高いので、今から入院してもらうとの話になった。そのドクターは、「今日入院して2〜3日もすれば、後は元気に舞台でも何でもしても良いぐらいまでに回復する」と、いとも簡単に言う。私は、緊急な事態だということは頭ではわかるが、自覚症状として自分の体がそこまで悪い事態になっているとは感じられずいた。しかし差し迫る公演を考えると、酷くなり最悪な事態、だけは何としても避けなければならない。そして舞台に立てるよう、今は安静にして、病気を治すことだけに専念することが先決だと考え、ドクターの有無を言わせない「即入院」の指示に従った。

 入院後はドクターが替わり、通訳が付かなければ回診に来ても見通しが聞けずこちらの事情も言えずで、不安が募る入院初日であった。

 

 4月4日(水曜日)

 朝にふと「このままで私は、本当に舞台へ立てるのだろうか。」と考えると不安でたまらなくなる。見通しの立たない入院で、私が万が一出演できないとなると大変な事態である。朝の回診で採血の検査数値が悪くなった、とドクターが告げる。それに対して「私に限って、最悪なことはない」とタカくくりを決め込むことにした。そうすると却って少しは楽になり、万が一の場合のことも同時に考えられるようになった。私の塵魔王の代役は誰が適任かと考えてみて、シャウルにやらす以外にないと結論が出た。どんなことになっても皆には公演を成り立たせもらわないと、と思うと少し気持ちが楽になった。

 この日の夕方のドクターの回診では、国際交流基金の島田さんに通訳に来ていただく。私のマレーシアでの仕事について必死に通訳してもらいながら、数値は悪いと言われても気に止めず、兎に角、4月5日の木曜日には退院して、本番前の大切な完全通しリハーサル(ゲネプロ)には、私は出て行かなければならない、と訴えてみる。が、当然ながら、ドクターには相手にはしてもらえなかった。そこで更にチラシをドクターに見せる。そうするとドクターは「それならば、何としてでも金曜日にはあなたに退院して貰わなければなりませんね。でないと、マレーシアにとって、困る事態になるのですね。私たちの医療現場が、それに向け、やれるかどうかが懸かっているんですね。我々も、頑張らないといけないということですね」と、いつも悲壮な顔を見せたことのない担当医のドクター・ラデュパンだが、この時もにこにことそう言って部屋を出ていった。

 夜に来た川喜多と、代役のシャウルの件で話す。その対策として、日本から途中から駆けつけている態変の衣装担当経験の長い米良に、明日の朝から布の調達に走り回って準備に備えてもらう。しかしこれは、細心の注意で進められなければならなかった。まだ、マレーシアの役者たちは舞台へは上がったことのない、アマチュアである。塵魔王の役柄は、作品としての全体を締める、大役である。シャウルが万が一の代役として聞いたときのプレッシャーは相当な物だろう。それも私が回復すれば塵魔王は私になるのであるから、いわゆる代役待ちの状態は17才のシャウルの精神としてはとてもきつくて持たないかも知れない。この事態に及んではリスクは最小限に留めておかなければならないと、準備は全体へは極秘で進めることにした。シャウル採寸も、何も伝えずに進める、と言った具合に。

 

 4月5日(木曜日)、本番前日・ゲネプロ

 ゲネプロに私が出るなどは、病院関係者にしてみると全く論外で、話題にさえならない。朝のドクター回診。検査値は良くなっていて回復の方向の兆しありと、嬉しい報告。そして明日退院の方向で、ただし条件は、とドクターから話。

 ・微熱に下っている熱が、今から24時間の間に再び上がらない事。

 ・もう一度やる血液検査の結果が翌朝に出るが、それが悪くなっていない事。

 それらの条件が揃っていれば、本番である明日の4月6日の午後には、退院しても良い。

 通訳で来ていた川喜多に、ゲネプロは、今回の演出補佐である川喜多に任せないと仕方がないと頼む。そして、役者たちへは「私は絶対に皆の所に戻るから」とのメッセージを託し、ホールに向かわせる。

 

 4月6日(金曜日)

 朝、ドクターが検査結果を知らせるのに、通訳はいるかを、使いの者に聞きに来させる。日本語の出来るドクターが同じ病院にいるという話があり、急いでそのドクターへ来て貰う。そのドクターがドクター・ラデュパンの検査結果の紙を見て「デング熱ではなくA型肝炎ではないか。それならば2ヶ月間は絶対安静

でなければ、命に関わる。明日退院し、舞台上で身体表現するなんてことは、もってのほかだ。」ということ。ドクター・ラデュバンは、私は座っての演出だけだと思っていた。と、舞台で動き回っての身体表現をやる人だとは、思っていなかったと言って驚いている。そして通訳のドクターは「命が大事」と言い残し去って行った。残された我々は、何が何だか分らなくなる始末。ドクター・ラデュパンは、今朝の採血で12

時に結果が出るので、それでまた考える事にしようと言って去る。

 12時に、ドクター・ラデュパンが来て検査数値はそんなに変わらない、との報告。そしていつもと違い、壁にもたれかかって困り顔で、「どうしましょうかね。これは困りましたね。さて、金さんはどのようにしますか?」と言われる。私は、「そう言われても、私としては、今日退院し舞台に出ることしか考えていません」と答える。それを聞いてドクター・ラデュパンは、静かに言う。「基本的には舞台へ出る事はお勧めしない。しかし今日退院するのは良いでしょう。あなたは、舞台には出るでしょう。その場合は以下を絶対に守ってください。

 ・顔が黄色くなったり、息切れなどがあれば即刻出るのを中止してください。

 ・帰国の日に、経過を診る為にもう一度、来診してください。」

 ということで晴れて、私は病院から解放され、皆の待つ劇場入りを果たすことになった。

 

ホール入り、叶う

 4月6日(金曜日)、公演初日。

 しかし安静を指示された身である。ホールに入っても、なるべく皆の顔は直接見るのは避け、静かに、誰も近寄って来ないように細心の注意をしなければならなかった。しかし、現地黒子のグレイスが、即座に私を見つけたかと思うと近付いて来て、「金さんが戻って来られて、本当に嬉しいです。」と握手を求めながら短く言い、幕の黒子の仕事へと戻って行った。これは皆を代表しての言葉であるのだろう、と私は思いながら、元気に愛想良く返せられないことを申し訳なく思いながらも、しんどい体のペースで憮然としていた。

 そして、私からの直接の話は役者へは今日はしないことにして、私は氣合わせとその前の一言二言を言うことにした。ドクターからの言い渡されている注意は、川喜多から全員へ伝えてもらうことにした。私が今日舞台に出られるとしても、出演は最小限にしなければいけない。だから、役者の皆がこの作品を伝える為に、塵魔王の私を頼らず、最大限の演技として舞台へ立って欲しい。皆の演技から、本当の芸術はきっと観客へ伝わる。皆は、もう既にそれらを持っている、という自信を持ち舞台へ臨んで欲しい。と伝えてもらう。

 客入れ前の時間の知らせで、氣合わせに舞台へ降りる。皆円陣を組み、私がその中に入れば済むように、準備が整い待っている。私はそこへ静かに入り氣合わせの前に、「今日の日が迎えられた事に感謝します。皆が最後までこの舞台を遣り遂げられる事を祈って。」と短い言葉で言う。それに伴う氣合わせはこの時、非常に厳粛な雰囲気が漂い出した。シャーは、ムスリムの祈りの時の様に、静かに下を向き本当に全員が、祈るような気持ちで氣合わせに入った。

 舞台は、驚くほど皆落ち着いており、観客へ向け、持てる限りの演技を出し切っての各シーンとなった。そして、観客からは良いシーンと思われる所での、拍手が巻き起こる程であった。皆は、拍手に酔うというよりも、良い舞台としてやる気迫に充ちていてきっと観客がどのようなリアクションをステージに返してくれたかは、気付かない程に演技に集中していたのが感じられる真剣さであった。

 私は皆の演技へ満足しながら、公演終了後には誰にも声は掛けず、明日の舞台へ立てるだけをキープしなければならない自分の立場を少し悔しく思いながら、ホテルに直行した。私は入院中も、演出家として今回のゲネプロも全く見れなかったことを、悔いていた。そして、退院後ホール入りし舞台へ上がって、ホテルに戻ってみて余力を感じていた。僅か3回しかない公演の初日が終り、後2回の公演を少しでも演出として妥協のないものに出来るように、やはり明日の2回目の公演前には照明での肝心なシーンのみの照明を見ることに当てたいと思い立つ。

 

 4月7日(土曜日)、公演2日目。

 照明のこちらの担当者は、レッスンにもよく見に来る熱心さであった。そしてこの作品の肝心なシーンは照明との合わせが不可欠だ。ホールに入り、照明を客席から見て、手直しを言う。照明家も嬉しそうにそのリクエストに答えてくれ、本番では活かせた模様。2回目公演も、役者たちは観客からの初日以上の反応を引き出し、公演終了後も興奮冷めやらない観客たちがロビーに沢山残ってくれていた。

 

 4月8日(日曜日)、公演最終日。

 舞台に2日間出て、自分の体にもまだ行けるという確信が持てたしこの日が最後なので、塵魔王としての舞台上に出るシーンを多くすることにして、公演前の手直しを全員へ演出付けを行い本番に臨む。そして、氣合わせに当たって、「今日がこの公演の最後の日。だから、今日は精一杯今まで以上に良いものにして、世界へ向けこの場所から芸術の革命が起るに相応しい、悔いのない公演と皆でして行きましょう」と方向を付ける。

 そして、最終公演は観客数もこれまでの一番の入りで、役者の身体の表現もフルで持てるものを楽しんで出していた。私もこれまでの手直しで、ようやく塵魔王としての面目は果たせたかなと思えるもので、全体としての出来は一番良かったように思う。観客のカーテンコールの反応は、これまでもそうであったが拍手が鳴り止まず、カーテンコールはどのタイミングで役者紹介をするか戸惑うほどのもので、この回は最後を飾る観客からの熱い思いが伝わる、どこまでも鳴り止まない拍手に包まれ天にも昇る至福な舞台であった。

 

 

役者は不測の事態を引受け、

強いプロとなる

 私自身が倒れるということが2回もあり、挙句は入院までしてしまう、といった皆にとっては本当に不安な思いをさせ申し訳ない事態であった。しかし複雑な気持ちではあるが、舞台上で引き受け切るプロ意識を遺憾なく役者たちが発揮し切ったこと

を考えると、この不測の事態が良い方向につながったと言えるかもしれない。もちろん、この2年間、そして仕上げの1ヶ月間、徹底的に私に絞り上げられたことが、こういう形で本当に生かされるベースにあったと言える。これこそが生の舞台を作るということである。

 このような試練を経て、観客からの熱い大きな拍手を浴びた、今回のマレーシアの役者たちは、舞台での芸術を目指すということはどういうことかを何がしか掴んでくれたと思う。彼ら彼女らのこの経験は、身障の身体としての自らを、一気に芸術の高みに上らせられた。それは、限られた時間とまたとない機会の重要さを、彼ら彼女ら自身が解り、希求した意志力なのだと思う。

 

終りに

 このようにして、3年間に及ぶ「態変 inマレーシア」の、プロジェクトは終った。

 表現を希求する障害者の自主性の面では、この3年間で自主的なレッスンを継続し、自らの障害の身体を肯定しそこからもっと表現力を発掘したいとする、芸術的な方向性が見えてきている。メンバーの主体的で自主的な自己の価値への目覚めはもの凄い。そして何よりも、マレーシアでのこのプロジェクトの中から、マリヤニはこれからも劇団を立ち上げ、私から教わった身体表現をマレーシアの障害者の身体表現として、やっていこうとしている。障害者にもたらされた変化は、私の予想を越え、確かなものとしてある。

 上演した作品に対するマレーシアの観客の反応は、凄まじいと言っても良いほどのものであった。突き動かされているような大きな渦のようなエネルギーが客席から舞台に伝わってきた。そこに渦巻いていたものが何だったのか、明瞭に言語化された形では伝わってこないが、しかし確かな何をかをもたらすことができたに違いないと確信できる大きな反応だった。

 役者としての障害者や黒子の健常者そして観客といったマレーシアの人々の、真っ正面から本質的なものを受け取り、それを形にして返してくれようとする力に、私は大いに助けられたと思う。この3年間の貴重な実践で、私は本質的なものを求める人々の中でこそ私の身体表現は行ないたいし、そして求める人々が世界中にいればどこへでも、これからも私は力を惜しまず生きる糧となる芸術を届けたいと思う。

 

 

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