国際交流基金のプログラムのひとつに「文化人短期招へいプログラム」というものがある。「これまで日本の接点が少なかった有力な文化人・知識人に日本との最初の出会いを用意し、日本に対する認識と共感を深めてもらうことを期待して短期間日本に招へいする」というものである。2003年の10月、国際交流基金ではアクターズスタジオの美術監督ジョー・ハシャムと代表のファリダ・メリカン夫妻をこのプログラムで日本に招へいした。
このプログラムでは基金海外事務所が日本に送りたい人を東京本部に推薦することができる。私たち国際交流基金クアラルンプール事務所(JFKL)は、演出家、プロデューサー、役者としてマレーシアの演劇界の中心で長らく活躍し、私たちの重要なカウンターパートでもあるご夫妻に日本の演劇状況を見て頂き、ネットワークを築いてもらいたいという意図があった。
ほぼ2週間の短い日本滞在の中で夫妻は多くの演劇人と交流し、作品を見たが、その中でも金さんとの出会いが最も印象に残ったという。
「今回お会いすることができた多くの劇団の中で、作品に関して言えば、劇団態変が最も印象的だった。私たちは金氏にすっかり魅了されてしまった。私たちは金氏と真剣に話し合い、彼女はマレーシアを訪問することに強い関心を持ったようだった。我々のアイデアは、まずは調査のために彼女をマレーシアに招へいし、そして彼女に障害者であるパーフォーマーに会い、施設を訪問し、ワークショップを実施するなどしてマレーシアの障害者のニーズを知ってもらう。その後、日本に帰ってマレーシアで上演する作品の準備をしてもらうというものだ。劇団態変の役者を何人かマレーシアに招き、マレーシアの役者と共演することも考えられるだろう。それは、きっと今までマレーシアではなかったものになるだろうし、歴史に残る、本当に意味のある舞台作品になるだろう。」と、帰国後の報告書にジョーは書いている。そして、このアイデア、提案を私たちから劇団態変に伝えたところから、このプロジェクトが動き出した。
アクターズスタジオ側からの提案を態変は積極的に受け止め、具体的な企画案が検討された。最初は2案、そして最終的には4つの案が提案され、2005年2月の初めての態変マレーシア訪問の際にアクターズスタジオ、JFKLと態変で検討された。そして、このプロジェクトはこの3者の共催事業として実施し、1年目は調査、準備にあて、2年目は劇団態変の作品上演とワークショップの実施を通じて役者、黒子を確保する。そして3年目に一般向けの公演を実施するという大枠が決まった。
私たちJFKLとしては、私たちがいわば道筋をつけて実現した日本とマレーシアのアーティストの交流から生まれたこの企画を大事にしたいと考えた。さらに、身体障害者による身体表現という点で世界でも非常にユニークな活動を続けてきた劇団態変の芸術をマレーシアに紹介し、最終的にはマレーシアの身体障害者自身がこれまでマレーシアになかった新しい表現を作り出し上演するという企画内容は、通常の芸術交流事業の枠を超えた画期的なものになると考えた。そして、この企画の実現に向けて、東京本部の協力も得つつ、日本側の態変とマレーシア側のアクターズスタジオの間の調整や、必要な資金的サポートを含め、全面的に協力することにした。
私たち国際交流基金は舞台芸術の分野において、日本とマレーシアのアーティストのコラボレーションによる作品制作はそれまでにもいくつか実績がある。マレーシアを含むアジアの6カ国のアーティストが参加し、およそ3年間の準備期間をかけて制作された『リア』(1997年)は初期の例だ。2001年には日本とマレーシアから俳優とスタッフが集まって『あいだの島』(世田谷パブリックシアターとの共同制作)が発表された。マレーシア国内でも、やはり約3年を掛けて制作されたパパタラフマラとマレーシアのアーティストによるコラボレーション『Spring
in Kuala
Lumpur』が2003年に上演されている。また、日本の演劇、ダンス関係者によるワークショップは、私たちが重要視している事業で、これまでにも何度も実施してきている。
しかし、今回のプロジェクトは、こういったプロのアーティスト間のコラボレーションやワークショップとは根本的に性格が異なる困難さがあった。そもそも、最初の段階において、このプロジェクトの対象となりうる障害者がマレーシアではどこにどういう形で存在しているのか情報がなかったし、どうやって参加を呼びかけ、ワークショップの場所に来てもらい、その後の稽古をどう実施すればよいのかもわからなかった。また、ボランティア、黒子の確保がどれほど難しいことなのかも認識していなかった。何よりも、このプロジェクトに内在する困難さが通常の事業とは全く異なっていることが次第にわかってきた。
前述の態変が最初に提案した案にはこう書かれていた。
「この第1案(これは「施設、在宅など芸術創造とは無縁とされ、その機会を奪われてきた人」をプロジェクトの対象とするというもので、これが基本の案となった=筆者注)は、態変というこれまでになかった芸術集団の、世界における意味づけを含んだプロジェクトだと思います。マレーシアのみならず世界にとって、非常に重要な意味をもつ画期的なアートプロジェクトになるでしょう。ただ、実現するための作業も関わる人間の数も膨大ですし、関わるすべての人たちがこのプロジェクトの趣旨と方向性を理解する必要があります。(中略)障害者の「自立」という概念の構築、障害者と健常者の共同性のあり方など、様々な方法である種の「意識改革」が必要になるかと思います。これは、想像以上に骨の折れることです。もちろんやり終えた後は、そんなことは吹き飛ぶくらいの価値はあるかと思いますが。」(2004年10月26日態変発メール)
まさにここに予言されている「想像以上に骨の折れること」が実際その後いくたびとなく起きた。それは単に技術的に困難なことだけではなく、参加する人の意識に関わることもあり、それがしばしば取り組みに対する「温度差」として問題を顕在化することにもなった。例えば、アクターズスタジオやJFKLの関わりの姿勢が不十分であると態変側から問題提起されたり、また、態変側の提案がマレーシアの事情に照らして現実的でないという議論も起きたのである。
3年余の長期に渡ったこのプロジェクトが何を残したのか。誤解を恐れず言えば、次につながるものを残したということだと思う。
このプロジェクトは、新たな人のネットワークを生み出し、役者、黒子、あるいは私たち制作側のスタッフ一人一人にこれまでになかった経験を残した。私たちJFKLもこれまで全く未知だった分野の人たちと出会うことができ、それは国際文化交流という私たちの仕事の枠を広げることになるだろう。とりわけ舞台での身体表現という体験をした役者たちの意識は大きく変わっただろうし、そして、そこから今後の新しいプロジェクトにつながる具体的な動きも生まれている。
一方で、このプロジェクトはマレーシアの多くの人の関心を集め、プロジェクト自体や公演、あるいは稽古の模様などを報じる記事が極めて多数のメディアに掲載された。その回数は私たちが把握しているだけでも新聞で30回、雑誌で12回、テレビ3回に及ぶ。ただの紹介だけではなく、その中には金さんや役者とのロングインタビュー、黒子として関わった人のエッセイなどの長文記事も含まれている。このほかに昨年の『ウリ・オモニ』では280人、今回の『Hutan
Kenangan』では350人の観客を得ることができた。これらの機会を通じて、態変の目指す新しい障害者演劇の考え方や実践が伝えらたことも、このプロジェクトの大きな成果だと私たちは考えている。
おわりに
『Hutan
Kenangan』初日を二日後に控えた2007年4月4日の夜、金さんが高熱を発して入院した事態を受けて態変の川喜多さん、KLPacのナラ、そして私たちJFKLのスタッフが集まって今後の対策を話し合った。金さんの病状はまだ快方に向かっていなかった。デング熱の回復の指標となる血小板の数値もまだ良くなっていない。金さんのことだからきっと初日には間に合うとみんな信じていたものの、しかし最悪の場合のことも考えなければならなかった。もし金さんが退院できなかったら公演はどうするのか。全公演をキャンセルすることはできないにしても、初日だけでもキャンセルし、金さんの復帰を待つべきなのか。
その時、ナラは言った。Show must go
on! 何があっても公演はやろう。役者も黒子もスタッフもみんなこのために準備してきたのだから。初めて舞台にあがる役者たちはただでさえナーバスになっている。一回でも多く舞台を踏ませたい。
私たちが信じていた通りに金さんは奇跡を起こし、公演初日に退院、劇場に駆けつけて舞台を開けることができた。しかし、振り返ってみると、この公演に至るまでの短くない時間の中でこのプロジェクトが何度も困難にぶつかったとき、例えば、役者オーディションのため障害者施設の協力がなかなか得られなかったとき、計画通りにリハーサルが進まないとき、どういう手段を使っても黒子が確保できなかったとき、プロジェクトに参加する人たちの考え方が食い違い空中分解しそうになったとき。その度に同じ言葉をつぶやいていたように思う。
私たちにとって、こうやって最後までプロジェクトをやり遂げたという経験は、次につなげられる成果を生み出したという意味でも、何よりも大きな財産になると考えている。
しもやままさや 学生時代はインドネシア地域研究を専攻。国際交流基金入社後、本部各部署、ジャカルタ日本文化センター勤務を経て、2005年7月からクアラルンプール日本文化センターに所長として勤務。