マレーシアで目指す変革
金 私は、劇団態変という形で、25年間身体表現をやっています。当初から、私のやる身体表現は、健常者と呼ばれる人たちの表現を模倣するものであってはならないと考えてきました。なぜなら、私たち身体障害者の表現は、健常者から最も遠いものとして、人間の根底――魂を揺さぶる存在として表現されなければならないと思っているからです。
障害者が従来置かれてきた役割として、健常者が楽しむ、見世物という仕事があったわけですね。そういう役割ではなく、障害者側からの認識や価値観という、全く異なる角度から表現を創るということ。それは健常者社会に向けて提示するということだけでなく、障害者自身の中にある健常者幻想に、障害者自身が真正面から向き合って取り組んでいかなければならない、そういう側面も持っているんです。障害者自身の意識が問われるところへ立ち向かう。そのことを通して初めて、観客という大多数の人たちの感性や心を奥底から揺り動かし、人生観を大きく変えることが出来る。舞台の上の一瞬の表現が、観客のこれまで持っていた概念とか、価値観というものを全てひっくり返してしまう、それぐらいの表現として見せることが、私たちは出来ると思う。そしてそれは、人間存在の捉え方を変える、根本的な変革、革命でなければならないと私は思っています。
そのような変革を起こすものにしたいという世界初の公演が、ここ、マレーシアで近付いているわけなんです。
マリヤニの中で今、起こっていること
金 この「態変inマレーシア」プロジェクトがスタートした3年前に私と出会って、正に当事者として関わっているマレーシア側の障害者として、マリヤニ、あなたの考えを聞かせてください。マレーシアでそのような変革は起こって来ると思いますか?
そして、あなた自身、障害者としての自分の中で、変化は起こっていると感じますか?
マリヤニ 私自身、このプロジェクトを通して変わったことは多いです。まず、私は大勢の人の前で話すことが嫌いだったのですが、今は大丈夫です。恥ずかしがり屋でもなくなりました。さらに、以前の私は鏡を見るのが怖かったし、自分のことを好きではありませんでした。でも今は違います。自分を受け入れることが出来たように思います。
金 そのようなあなたの変化は、健常者的な価値観で全てを計る健常者幻想が一つずつ剥がれてきたということだと思うんですよね。
例えば、鏡を見ることを拒否するというのは、“あるべき女性の姿”という型に自分を押し込んで、そこからはみ出てしまう部分を拒否したいということだと思うんです。そういう気持ちが自分の中にあったということを正直に認めることがまずは重要。
マリヤニ 最初はステージに上がるのが怖かったんです。そして、ステージに上がるという夢が叶えられるとは思っていなかったです。(口ごもるマリヤニ。涙が頬をつたう)
金 今、マリヤニの中に起こっている変化は、自分の今までの意識と、変わろうとしている意識との間で、言葉や理論にしていくのは非常に苦しい作業だと思うんですよね。しかしその“苦しい”ということ自体が非常に大事だと思っているんです。
舞台に上がるのが怖い、自分を直視するのが怖いということを転じてみれば、自分はこれまでどういう状況に置かれていたのかということに帰結すると思うんですよね。
それはもちろん、健常者側からの見られ方、ということ。あなたが今流した涙が私は大事だと思います。まだ整理がつかないかもしれませんが、あなたの経験を社会に拡げて考えてみるとどういうことだったのだろうと、ここで頑張って言葉にしてくれませんか。
マリヤニ 何と言っていいか分からないけれども、考えてみます。
私は以前普通の学校で学んでいました。先生は私のことをよく分かってくれず、何かと遅れることの多い私は、いつも怒られていました。友達もあまりいませんでした。…やはりとても難しいです。思い出したくないです。周りの友達が私をよく苛めました。特殊学校であれば苛められなかったかもしれませんが…。私は19歳で大学準備課程を終え、その後仕事を探しました。
金 苛められる経験がありながらも、普通学校に通い続けるというのは、あなたの志がなければ出来なかったのでは?
あなたをそうさせたのは何だったのでしょう?
マリヤニ 皆が私を馬鹿だと言うけれど、それが間違いだということを言いたかったのです。
金 そのように普通学校に障害者が通うことは、マレーシアでは珍しいこと?
マリヤニ 珍しいです。いわゆる養護学校に行くのが普通です。学校の先生は養護学校に行くべきだと言ったのですが、私の親が反対しました。
金 養護学校でなくて普通学校に行かせると、親が断固として言ったと。
マリヤニ 両親が、私の子どもは知的障害があるわけじゃないから、養護学校に行く必要はないと先生に言ったんです。
金 それ自体、闘い。両親にとって、マレーシアのそういう教育の中で、マリヤニの存在を認めるという闘いがあったと思いますね。そして、両親がそう思ったからだけではなくて、マリヤニ自身にも闘う意識、自分の存在をちゃんと認めさせるんだという意識がなければ19歳まで普通学校には行けないと思うんです。
マリヤニ クラスでは、私がいるということを先生も意識しませんでした。前の方に座って初めて、私の存在を考えてくれるようになりました。先生がマリヤニの中の学ぶ可能性を分かっていなかったのです。CPのことを分かっている人も、先生を含めて一人もいませんでした。
金 そうですね、マレーシアでは障害者の状況に対してある程度対策はされつつあるとは思うんですが、マリヤニがずっとしゃべっていたように、障害者が個人として見えてこないなあという感じがしているんですよね。きっと日本もそうだったように、障害者が一人の人間として扱われることが非常に少ないんだろうと、やはり感じるんですね。
日本では、障害児が親によって殺されるという事件があったんですよ。
マリヤニ それは…、本当ですか?
金 親が障害児の将来を悲観して、この子の命を今のうちに絶っておこうと。そして日本社会はその事件に対して減刑運動も起こしたんですね。私も含め障害者たちは、刑を軽くするなんて、そんな特別扱いは障害者の命を軽視するものだと反対しました。マレーシアの人はこの事件を聞くと皆一様に驚きますね。
マリヤニ イスラムの教えには、「障害者は神様からの贈り物」、というものがあります。ですからマレーシアではそういうことは起こりません。障害者は家庭で甘やかされて育ちますね。甘やかされるばかりに自立出来ないという状況もあるのだとは思いますが。
金 自立を阻害する面としては考えさせられますね…。
マリヤニ 親によって命を絶たれることはないけれども、マレーシアの障害者は社会的に「殺され」ていると言えると思います。自立したいという情熱を絶たれることで。
金 ええ。マリヤニは家の中ではどんどんしゃべっていました?
マリヤニ 家でもあまりしゃべっていませんでした。学校でも、よく図書室で本を読んで過ごしていました。
金 家の中でもあまりしゃべらなかったということは、両親との会話の中でも自分の考えを述べるというようなことはやっていなかった?
マリヤニ やっていませんでした。
金 そうですか。マレーシアに来て私が驚いたのは、CPの障害者の言語障害が非常に抑制され、隠されていることでした。日本でもですね、言語障害による聞き取りにくい言葉は聞きたくないと思われて、不自由そうにしゃべる姿を見て、この人はしゃべれないんだと決めつけられるんですよね。
マリヤニ マレーシアでも同じですね。バンギ(編集註:バンギ職業訓練リハビリテーションセンター。マリヤニはここに通っていた)でも、会議の代表に選ばれたことがあったんですが、私が発言すると、他の人はうるさくして聞こうとしませんでした。
金 障害者の中にも、健常者に通用する部分での見下しというものがあるということですね。
マリヤニ はい、障害者の中にもあります。話の上手な人が最終的にリーダーになります。そして障害者の中でもCPは端っこ、辺縁に寄せられています。
金 そうそう。やはり障害の程度で非常に競争させられるんですよね。ランクをつけて。それは健常者の目線でのいい子、努力する子で、ランクを付けられているというふうに思いませんか。普通学校もバンギの施設でも、つまり、健常者社会も、障害者自身も、やはり一貫してそういう価値観でしか障害自体を捉えられてないということだと思うんですよね。
マリヤニ 以前金さんが私に言った、障害者が大学などで一生懸命勉強したとしても、健常者社会では、「劣った」障害者が健常者に近付こうと努力している構図として受け取られ、「おぉ、あなたは障害者の割にはよくやっているね」と思われるだけだという言葉に、今は強く同意します。そして、障害者自身もそういう価値観に囚われているということですね。健常者的な軽度の人がリーダーになるという構図。でもこのプロジェクトではその構図が逆でした。私がリーダーになったんです。
変化のプロセス
金 ナラ、あなたはどうですか?3年前からこのプロジェクトの中心として各方面で動いてきて、黒子頭として役者たちとも直接に関係を作っている。あなたはこのプロジェクトをどのように捉えていますか?
ナラ 思い出せば、2003年にファリダとジョー(編集註:アクターズ・スタジオ主宰。本プロジェクトの発起人)が私の所にやって来て、「君がこのプロジェクトの責任者だ!」と言われ、そこで初めて態変のビデオを見たのが始まりでした。そのビデオというのが私に大きな衝撃を与えたんです。これまで私は演劇指導などで障害者と接する機会を持ってきたので、障害者にショックを受けたのではなくて、その、金さんの示されたこれまでの概念とは違う何かに胸を突かれたんです。そして、私がこれだけショックを受けたのだから、他の人は果たしてどのように反応するのだろうかと思いましたね。
私も含め、黒子になってこのプロジェクトに携われた人は本当に幸運だと思います。
というのは、態変のコンセプトをよりよく学ぶことが出来たからです。このプロジェクトは関わった全ての人を成長させました。もちろん私自身も人間的に成長出来たのではと思います。黒子の一人、ぺトラは、「「正常な」動きが人間の動くほんの一つの方法だと知った、そして何が「美」かということへの認識も大きく変わった」と言っています。
金さんが日本から来られて、プロジェクトのコンセプトを話し、ワークショップをされた3年前のスタートから、私たちはたくさんの問題を通り抜けて来ました。初め参加していたメンバーで辞めていった者もいました。しかし何人かの残ったメンバーで毎週のように稽古を重ね、金さんに指導を受けて来たこれまでのプロセスは、彼らを変えていくだけの計り知れない影響力を持っていたと思います。
今、マレーシアの障害者たちが金さんと同じ舞台で表現していて、あぁ、やっとここに辿り着いたか…!という気持ちです。
マリヤニ ナラの言うとおりです。長かったこのプロジェクトは変化のプロセスでした。何より私たちが変化したいと願ったのが重要だったと思います。プロセスがあったとしても、それを私たちが生かしたい、ものにしたいと望まなかったら変化は起こらなかったと思います。そして特に、私たち言語障害のある重度のメンバーにとっての変化は、より大きいものでした。より自分に自信を持たせるチャンスになりました。
ナラ 金さんが最初に役者たちに、「あなたたちには声がある。あなたたちはしゃべるべきだ」と言われて、それに対して、今では皆が声を出して自分の意思を言うようになったことにとても驚いています。
もう一つ、印象に残っているのは、このプロジェクトのワークショップや稽古で身体表現を習ってきた役者たちが、筋肉の使い方、身体の動かし方を習い、発展させる中で、これまでにないとてもユニークな動きや新しい動きを発見して、し始めるのです!
そして時には、見ている側が、これはとても新しい動きだと気付いて初めて、本人もそれに気が付いて驚くということがあったんですね。こうしたプロセスは私にとって非常にエキサイティングなものでした。
金 そうそう、昨日、役者の一人が私のもとへ売り込みに来たんです。自立したいと、このままでは私の人生は退屈だ、って。
(つづきは情報誌IMAJU vol.39本誌に)