情報誌IMAJU vol.42
ダイスを転がせ11 〜スゴロク的迷宮思考〜
とても静かな祝祭空間について。物語論序説
柳井愛一

 最近の若い人たちの演劇活動に就いてなにか書いて欲しいという福森編集長からの依頼があった。長いことお芝居を観ていると『最近』の芝居という範疇、規範が曖昧になってしまっていて、1年前にデビューした劇団も30年前に初演をした劇団も同じ次元で新鮮であったり、陳腐であったりして活動を始めた時期や集団の年齢に拘らなくなってしまう。「維新派」や「犯罪友の会」等、役者も芝居のモティーフもかなり変わって――同じ劇団とは思えない相貌を呈しながら――毎回新鮮な作品を創り続けている集団もある。どうしても譲れない一線というものだけを維持していけば「君子は豹変する」という言葉が正しく使われるということを証明している。移動し変わらなければ沈滞し、濁っていくこともある。だからいつまでも最所に出会った時のように次の公演に対してワクワクしてしまう。
 そこで、敢えて新しい集団というよりも、今までイマージュで紹介する機会の無かった、けれどイマージュの読者に紹介したかった劇団を中心に劇評をまとめてみたい。
 新しい形・表現方法に就いて昨年から今年かけて観た作品の中からピックアップしてみたい。――しかし、もっと沢山の芝居を観ることが必要だったし、重要な作品を紹介できなかったかもしれない。それは著者の責任以外なにものでもない――。是非一度は観て欲しい劇団の紹介をさせて頂きたい。

 新たな傾向としての「訳の分らない芝居、劇的でない芝居」に就いて今回は語るつもりだ。つまりはっきりとしたストーリーの分りにくい作品のことなのだが、そういった演劇は所謂「アングラ演劇」の頃から存在していたし、また所謂「静かな芝居」といわれる作品群の中にも存在していた。それに対してまた別の新しい方法が出てきたという印象を報告してみたい。今までと異なった相貌を持った演劇の作品が現れたと思う。と言っても彼らも、もう10年くらい活動しているのだから、僕の怠慢で彼らの活動の紹介が今まできなかっただけなのだ。劇的=ドラマスティックな展開というのはどういう定義を持っているのかと尋ねられても返答に困ってしまうのだが、平凡な日常を切り取り役者の身体を使って、別の何かとして表現してしまう一種の異化作用といった古典的な定義がやはり僕にはまっとうな演劇=芸能の定義だと思う。だから問題になるのは現時点に於いて、なにをどういう風に異化してしまうかということだ。日常的な出来事をどうメタモルフォーゼ(変形)して見せるのかということで『今』の時代というものが鮮明に観えてくることは確かだ。

 取り敢えず、僕の記憶に強く残っている劇団として「正直者の会」と「ドラカン=ドラマティックカンパニー」「dots」がある。どちらもこれといった劇的な物語を持たない。ただその物語の語り口が、アングラとか静かな芝居、あるいは実験的な芝居・ベケットやイオネスコ(こちらはかなり演劇的ではあるのだが)等とはかなり違う様に思える。勿論ある種の近親的関係はあるのだが、観客への提示の仕方、役者の物語に対する身体的・社会的な反応が少し異なっている様に思える。この少しの差が表現の『今』という時代との対峙の仕方を示唆していると思う。従来の作品はどんなに混沌としていても、あるいはあっさりと謎めいた舞台を提示しても、テーマ=テキストというものがあったと思う。観る側はそのテーマを最終的に、すぐに言葉としての解釈ができなくても感覚的に、身体的に受け取ることができた。ところが先の3劇団(その他にいくつかあるのだが)はテーマ・主題がすぐに見つからないまま終わってしまう。テーマを攪拌機にかけて、テーマの持つ独裁制に敢えて反乱を起こす物語を創りだしている。テーマはあるのだが、それが分裂し統一化を拒否して展開している。文字や絵画等がなにかを表現してしまえば、そのこと自体でテーマ性を持ってしまうという宿命を持つ、その限りにおいてナニカを主張している様に思える。だから境界のぼやけたテーマに対しても観る側は必然的に真摯に対峙しなければならなくなってしまう。つまり矛盾を内包しながらお芝居を楽しんでいる。その愉快さを語りたい。

 彼らの作品には、その作品が成立する条件=コンテキスト(解釈可能な演劇の枠外条件と、不可解で構わない物語の流れを支える解釈論的な意味、物語の外側)のみで物語を作っている様に思える。そんなコンテキスト的なものを曝してしまうと、逆に物語の枠組みが外側を持つことができなくなるという逆転現象が起こってしまう。外部が内在的に捉え直される。こんなことをいうとなにやら小難し実験作品の様だが、彼らの作品は観客にこんなお芝居の楽しみ方もあることを提示していて、とても愉快なのだ。
 不条理劇の代表作として、例えば『ゴドーを待ちながら』という作品と比べてみてもいい、ここでは生真面目に観なければただひとりの人物を待ちながら奇妙に可笑しな、笑える会話が展開されている。アメリカでの初演では「パリ直輸入の爆笑コメディ」として紹介された作品なのだ、そしてそれは解釈としては間違ってはいないと個人的には思える。しかし生真面目な人はゴドーがなにものなのか、このテキスト自体の意味・謎を探してしまう。そして作者・ベケットは意識的にしろ、無意識的にしろ、やはり謎のテーマが存在していることを前提に作品を提示していると思う。主題が謎だということ自体がここでは主題なのだ。個人的にはゴドー以上に、ある意味で不条理で奇妙な作品『ハムレット』が劇的な作品の代表として認められていることも不思議なことだと僕は思っているのだが、演劇とはそんなものなのかも知れない、役者と作者・演出家そして観客が面白いと思えればそれで成り立ってしまう、それがお芝居なのだ。

「正直者の会」の『届かない所』

 ――精華小劇場・3月6日(木)〜9日(日)――

 田中遊を中心にして1997年より活動を始めた集団。田中がひとりで行なうパフォーマンスも含めて「正直の会」の活動に含まれているので、正式な意味では劇団といえるのかどうか分らないが、独自の世界を提示してくれる集団として紹介したい。彼らの過去の作品のプロフィールを見ると、やはりベケットにかなり影響を受けていることが分る。初めて観たのは一昨年――それこそ不条理な形で転居を余儀なくされた――「Art Theater dB」における『円卓』で、その不思議な浮遊感に魅せられてしまった。ダンスの拠点で、こんなお芝居もありますよと、言葉のダンスに挑戦してみた作品だと思う。

 『届かない所』は『円卓』と同じく、微かにストーリーらしきものが仕組まれている。舞台には椅子と靴がインスタレーションとして用意されている。カセットレコーダーを抱いた数人の人物。殆ど意味を成さない言葉から物語は始まる。意味のない台詞がおっと・つま・すき・きらい、と男と女の会話になる。男1と女1のコミュニケーションが始まると同時にその手前で赤ん坊を抱く様に女性2が抱いていたカセットから赤ん坊の泣き声が聞こえる、カセットをあやす女2。困惑する男女。そして男3は椅子に座り読書。女1が男1を離れやはりラジカセを持っている男2に愛情的なものを示し始める。男3は女1の子供マサトの日記風の文章を朗読。男2がその後、女1の子供を演じることになるのだが、そうするとフロイト的な物語も出来上がる。でもそれはここでは無縁なもの、当然そう言った含みはあるのだが、作品として一つのできごとのパーツに過ぎないと思う。男2の台詞は殆ど男3の朗読かテープの声なのだから、実際の感情は曖昧なものにならざるを得ない。

 役者が喋る台詞は隙間だらけ、その隙間から物語らしきものがこぼれ落ちてくる。女1の元に男2の電話に模せられたカセットデッキから、アルツハイマー症の祖母が行方不明になったことを知らせるメッセージが流れる。そのために何故か少年になっている、男1をつれて田舎へ帰る。その準備やその帰郷の過程を伝えるのはテープの声である。その間の母の化粧の様子、男1の服装の準備が男3の朗読によって丹念に説明される。父親はどこかの遠い国で仕事をしている様だ、恒に不在の夫と妻は国際電話でよく喧嘩をしているみたいだ。母の遠出も浮気を誤魔化す口実の様に思える。そんな何回かの遠出で、今回は偶々、本当に母が故郷に帰った思い出を男2が語る。母にとって久し振りの故郷は全く見覚えのない空間に変化してしまっている。そのことを説明するのもテープからのメッセージと男3の声である。所定の駅から乗ったバスには半ば記憶を喪失した老人ばかり乗っていて意味のない会話のみが繰り返されている。見知らぬ故郷に見知らぬ老人達。

 「私たちが見る夢の一つ一つは、実は繋がった、たった一本のとても長い夢の、その部分々なのではないのか? とても長い間」と女2の独白。しかも最後まで言葉が続かない。

 ここで、男1、2、3女1は裸足であることに気づく。舞台に並べられた靴に男2がどうしても片方の靴が見つからないとことを気にし出す。香港製の量販店で売っている靴である。しかし男にとってはとても大事なものらしい。靴とカセットテープそして記憶の類似点が示唆される、それらはその度ごとにすり減っていくものなのだ。一回ごとにすり減り、そして全く消えて無くなるまで何回も反芻され続ける。ここでバスの中の老人の会話との接点が見つかる、そして男3=2=1の母や父への記憶の曖昧さの意味も分る。全ては磨り減り続け、別の何かに変化してしまう。

 高校の時の数学の教科書を思い出す。――行列の要素は数であるが、行列自身は数でない、数の演数を定義し、その演算のしかたについて考えよう――。でも、なにがなにに変換されているのか?

 ローカルバスで実家に帰る物語が唯一の物語で、その前後の物語は極端に曖昧なものになっている。これは磨り減っていく過程としての記憶と、カセットテープという磨り減り続ける運命を持つメディアとの対話なのかもしれない。色あせたカラー写真やモノクロ写真がDVDの永遠に続く『今』に対峙する。

 潔く磨り減っていくものの中にいろいろなテーマ的なものが分散し、その解釈を観客に任せ、或る意味では無秩序な空間を創り出した、この空間を楽しめるかどうか? 磨り減って行くものとの複数の対話以外なにも提示されてはいなかったのだが、ともかく僕には充分に面白い空間だった。

 テープと録音された声という意味では昨年京都芸術センターで上演されたドラカンの『もれうた』が印象的。

 1992年にドラマティック・カンパニーとして旗揚げ。作風がかなり変わってしまった為に1998年より自らの演劇を祭典としての実験劇として規定するために略称の「dracom=ドラカン」を劇団名にした集団。ドラカンには改名後はドラマティック・コミュニケーションという意味が加わったという。

 ――17世紀の前半までの人々はカーニバル劇やカーニバル感覚にじかに関与していた。かれらはカーニバルの内にいきていたのであり、つまりカーニバルが人生の一形式をなしていたのである。したがってカーニバル化作用も直接的な性格を持っていた。(ある種のジャンルに至っては、直接カーニバルのために書かれたのである)。つまりカーニバル自体がカーニバル化の源だったのである。―― ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳・ちくま学芸文庫P.263〜264

 彼らは、祝典=カーニバルとしては余りに静かであり、ドラマティックでないという批評が起こる性格の芝居を敢えて「祭典」としての作品として提示している。ドラマ・物語への挑戦ということなのか。むしろ脱構築された物語を観客の視点で再構築してもらい、観客の視点で再び脱構築するという楽しみを与えるということで、祝典=カーニバル化の意味を新たに作り出す試みだと思う。

 ドラマティック・カンパニーとしての作品も今年の3月にウイングフィールドで公演。ここではドラカンに就いてのみ紹介します。ドラマティック・カンパニーも面白かったのだけど、文章の構成上、またの機会に紹介させて頂くしかないと思う。

「dracom」の『もれうた』

 ――京都芸術センター・2007年・9月8日(土)〜9日(日)――

 役者の台詞は全て予め録音によって構成されている。だから出演者の動きは、予め録音された台詞によって規制されることになる。しかもその録音された声は全く劇的ではない日常の会話。いかに普通の動作を役者にさせるのか、その意味では演劇的ではあるのだが。

 もれうたというタイトル、舞台の片隅に置かれたモニターからは映像とオペラの切片が流れてくる、もれうた=漏れる唄、埋れる唄、謎の唄。老婆が語る録音されてない生の台詞「浅草のお父さん」これがオペラとの唯一の接点。

 街中の公園のほんの10分くらいの出来事のスケッチ。ベンチにはホームレス風の男が寝そべっている。そこへ介護士に付き添われた痴呆症の老女が現れる。介護士のもとに携帯電話、介護士は老女をベンチに座らせ何処かへ行く。正体不明の男がうろつく公園に、体の不自由な年寄りを置き去りにできる最大の時間内に物語らしきものが展開される。

 公園を訪れる人々、もてない男達の会話、芝居をやっている女の子の会話、上手くコミュニケーションができないカップル、なにも喋らない傍観者の男、誰かがいなくなるたびに空っぽになった空間を彷徨い寝そべるためのベンチを変えるホームレスの男。会話は全て予め録音されている、何度か同じ様な会話が繰り返されていく内に録音された台詞と役者の動きに少しずつ誤差が生じる。意図的なものだろう。

 昼下がりの町外れの公園の一瞬の出来事、中心になる物語がない。いや、本当の物語はこの公園の外側で展開されているのだ。男達も、女の子も公園の外側で人生の悩みに対応している筈だし、老婆にしてもここは散歩がてらにやってきた場所なのだから。

 そうするとモニターに映し出されたオペラの意味は? ということになる。老女の思い出、老女は自分の声でその音楽とかみ合わないハミングをする。すごく希薄なドラマ。劇的なものは楽曲のなかにあるのか、それとも実際の公園に在るはずもないモニターの中で展開されているのは老婆の薄れていく記憶なのか?。

 劇的なものの断片だけが集められている。しかも役者は喋らない、会話はすべて予め録音されているのだから。コラージュとしての物語を創るための集められた紙切れや汚れた雑誌や新聞紙、切り取られた部分に本当の物語があり、ここに集められたのは本当の物語の残滓に過ぎない。だってほんの10分に満たない出来事なのだから。

 介護士は老女を迎えにくる、公園に集まった人々も何処かへ去っていく。取り残されたのは滑り台の上に置かれた老女が抱えていた人形と、ブランコにのった傍観者の男。人形が滑り台から転がり出すと同時に男もブランコから落ちる。最期に男が発する「あっ」という叫びと老婆の鼻歌だけが実際にこの作品で使われた肉声だと思う。

 録音による会話と、模写された普通の人々の行為。不自然でない。空っぽの公園がスカスカの中心を形作る。なにもない物語なのに不思議に魅力的だった。

 靴がキーワードになる舞台としては「dots」の『vibes』 ――京都芸術センター・2007年・8月31日(金)〜9月2日(日)――がある。

 dotsは2001年に桑折現を中心として結成された集団。演劇だけでなくダンスやパフォーマンスとしての舞台活動も展開している。

 数個の四角い鉄板が舞台に吊されているその上には白砂。舞台の後方には浜辺を連想させる砂地。舞台中央のテーブル状の場所には砂に埋められた男。腕だけを出した男の動作はなんだか砂浜で遊ぶ蟹の様にも見える。

 袋を抱えた女が静かに現れ男の存在を無視して袋から数個のグラスを取り出し舞台中央のテーブルに並べる。女は自分の死を語る、自殺した人物なのか? 身体が落ちていくのではなく、地面が近づいてくると語る、「恐れを無くす為に死んだ人はいない」という謎めいた台詞。毒でもあおるようにグラスの酒をあおいでいる、いや毒を酒の様にあおいでいるのかもしれない。

 またひとり袋を抱えた女性が叫びながら現れる、何度も砂地の上を転びながら先ほどの女と同じ台詞を繰り返す。死んでいる様でまだ死にきれない、仏教で言うところの中陰(成仏するまでの49日間)の世界の物語なのか、と思う。男は手だけを砂からだす、やはり蟹が遊んでいる様に見える。この女は舞台中央の砂地でない場所で倒れる。男が砂地から起き上がる、そして先の女性達と同じ様に、自分の自死について語る。それは先ほどの女達と同じ台詞。グラスの女は苛立って男に反論する。

 倒れていた女が起き上がり奇妙な、自分の曖昧な外観を装う様な服に着替えて去って行く。女が残して行った袋には夥しい靴が入っている、それも左右のない履くことができない靴、役割を持たない死んだ靴。そして女達はいつの間にか裸足になっている。歩くのには靴なんかいらないのかもしれない。死んでやっと人は裸足でも歩けるという事実を知ったのかもしれない。

 第2の女が産まれ来たことの不思議に就いて語り出す。狭い産道をでて見知らぬ世界に産まれてしまったことの不思議に就いて語る。目を閉じた時に現れる赤や緑の残像に就いて語る、ずっと聞こえ続ける耳鳴りの音に就いて語る。結局彼らは本当は死んではいないのかも知れない、ただこの世界を脱出してしまっただけなのかもしれない。

 鉄板の上には砂が落ち続け、落ちる速度と落ちる場所で物語と平行した音響=音楽を演じていたと思う。それは地面に飛び降りた人たちに聴こえて来た音楽なのかもしれない。

 これだけで劇的な空間を創ってしまったのだが、物語は結局、観客に向かって放り出されてしまった。それがこの作品の魅力なのだろう。あなたはこれをどう判断するのか? と観客に問う。

 これは今回語らせて貰った三つの劇団全てにも言えることでもある。

 3月25日に京都での講演を楽しみしていたのに、日本政府の意向で来日不可能になったアントニオ・ネグリの言葉で新しい表現に対する僕の見解を代弁させて頂くことにしよう。   

 少なくとも僕の知る限り、ネグリを元政治犯としての証明ができないために入国拒否をした国は日本だけだと思う。このニホンという国はなかなかの「文明国」なのだと改めて思った。

 ――ポスト近代的な文化の新しい規範とは何でしょうか。わたしたちにはわかりません。しかしそうであるかといって、そのような規範が存在することを否定するに足るだけの理由にならないでしょう。わたしたちにわかっているのは、この偉大な変革が生のなかで起こっているということ、そして、この生のなかでこそ、それは新しい形象を表現しているということです。尺度をもたない形象、度外れた形式というのが、それです。つまり怪物なのです。 ――アントニオ・ネグリ『〈帝国〉とその彼方』上村忠男監訳・堤康徳・中村勝己訳・ちくま学芸文庫 P.100――

 とても静かに怪物的なものが産まれているのかもしれないと感じさせてくれた三つのお芝居に就いて今回は紹介させて頂いた。

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やないあいいち 演劇情報誌「JAMCI」スタッフを経てフリーのライターに。「劇の宇宙」「明倫アート」等に執筆。
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