諦め
今私のキーワードは<諦め>である。
それも何もしないうちに諦めさせられることに、嫌、という感情を持ち憎悪感を激しく持っていた子供の頃の施設時代を思い、その言葉が身近に近寄っていることに危機感を覚えるからである。
私の芸術行為はこの<諦め>られないもの、ここからきているのではないだろうか。
情報誌イマージュの29・30(今年3月に発刊なのでまだ出てないが。)「金満里のページ-身体論-」にも書いているが。身体介護を受ける身として、身体感覚から来る不快感に非常に敏感であり、きっちり返していたというのは施設の職員との接触からそうだったのを思い出している。そういった自分の身体への、他者に譲れない感覚は実は持ちにくいものかも知れない。
例えば具体例を上げると、靴下を足の裏表逆に、半分のところで横いがみで履かせても平気でそんないい加減さでも知らん顔しようという職員には、「もっと、ちゃんとはかして」という。そんなときの言葉の後には、「気持ち悪い。」が、必ず付く。自分の不快感には理由があるということである。私の子供の頃の施設職員は、完全に介護するのが邪魔臭い、という相手を人間とは思わないぞんざいな扱い、からくるものなのである。
しかしそこは私自身として相手がそうしているのを見ているから、これは価値観としてちゃんとはかせて欲しい、とかちゃんと扱って欲しい、という主張の面だけではそれを言っているのではない。現実的に、皮膚感覚としてゴロゴロやゴワゴワという靴下と足のそりが悪いところからくる、実感としての"気持ち悪い"なのである。
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