食うことには妥協なし-医食同源

 

 5年ぶりに玄米を食べだして2ヶ月。食事と言うのは非常に大事なもので、玄米は、忙しい時間を過ごす仕事人間には、噛んで食べるというのが生活には向かない。一さじごと落ち着いて口に運び、ゆっくりと噛みしめそのご飯が無くなると次の一さじを入れる。玄米の理想は、一口に含み百回噛むことである。なかなかそんな回数噛めるもんじゃないと思いながらも、噛んでみると意外と玄米は口の中に残っているもので、やはりパワーのある食物はしつこく踏ん張る、と変なところに感心したりする。

 もともと玄米を食べだしたのは81年のぶっとばせ’81を企画した、(実はこれは大きな恥なのだが)コンサートの時に私は急性アルコール中毒になり(詳しくは「生きることのはじまり」を読んでください。)慢性すい炎となったのを治すためである。


 玄米と野菜を中心に、植物性であっても油も控え、あっさりとした精進料理のような食事を続けた。そのうち少し白身魚を摂るようになり、次ぎには肉も赤身のところなら摂れるようになり、と一年二年かけてそんな体を直した。すると体は、以前よりも元気なくらいに、爽快となった。

 お酒は以前のようには今も飲めないが(それまでの量はどんだけやと思われるだろうが、その通り。)普通には戻っている。

 若いころの無茶は、誰しもへることで、ある程度は許されねばなるまい。そういう無茶な生活をへて一つずつ自分の身体をいたわることを覚え賢くなる。しかし食生活はやはり行きつ戻りずで、どうしても贅沢な食生活となり食べ過ぎてしまう。そしてせめて食べることぐらいは楽しまなくっちゃ、との飽食も我が家では推進である。自己管理しすぎてストイックにストレスをためても仕方がない。とにかくどちらにしても食べることには妥協しない主義なので。

 基本は美味しく食べれるものは身体に良く、口に入れるものは身体に良いものでなくっちゃ、という“医食同源”の考えである。


 玄米を再開したのも、少しゆっくりと御飯を噛みしめる時間を持つのもいいか、というのと、実は一昨年の9.11米国ワールドトレードセンター事件以降、便秘に悩まされていてどんどん酷くなる。このまま便秘を放っておくのは、米国がイラク攻撃を始めそうなのを放っておくのと一緒と、と思いいたりエイヤッと、3年ぐらい米びつにしまったままの古米と化した玄米を、取りだしたのである。

 焚くのは噛むかむ鍋という素焼きの内釜を、圧力釜内に入れて焚く方法。これが古米であっても全然美味しく、そして実は百回噛まなくても、白御飯と同じくらいスルスルと咽に通っていくのである。お金としての換算ではないが、障害者のわりには仕事人間といえる今の私の生活では、ゆっくり御飯を食べれる時間をとるのは理想としても、やはり無理はある。いくら仕事人間といえども、ある程度以上のストレスの基準として私はやはり、ひどい便秘、にあるのである。これは施設生活の中で馴らされてきた慢性便秘への、“絶えられない”という抵抗の思いがでもある。お蔭で、毎朝出るようになり、何とか便秘は解消をみるようになっている。

 しかし私は身体表現としても、身体の筒説を基本としている。その身体の循環を良くするためには、滞りをなくすこと。そのためには口という、筒の始めに入れる食には"医食同源"の考えが自然とあるのである。かといって、玄米がかなずしも万人への便秘朗報ではない。その人の体質があるそうである。やはり食べてみて美味しい、と気に入るかどうかと、自分の調子を冷静にみてやる、という体に対しての客観的観察であろう。そして玄米を食べたいが忙しい、という人には冷凍という手がある。玄米を大量に炊き、一膳づつ冷凍してストックしておくと毎日帰宅しても、レンジで解凍で直ぐに食べられる。そしておかずが、一汁一菜で満足するのである。そして尚且つ、エネルギーの持続が結構良いのである。

 こんなに良いと解っていても、現代人の生活はやはり、ストイックさだけでは持続できないもの。何といっても、心に滋養、が一番。

'03.3.8(金) 

 

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