そこで中学という高学年になった、中度といえる車椅子で移動のできる程度の私は、不当な扱いには決して馴れなかったし他の寝た切り重度の友達への扱いへも、おかしいことはおかしいと頼まれもしないのに、勝手に職員に抗議をする子供になっていた。

 その中で子供心に育ったのが、集団と個人の関係である。大勢いても溶け込めない、自分から自分をみんなから遠ざけているのか、みんなが自分を受け入れないのかがわからないが、集団になれば派生する排他性といじめである。やはりこれは、私にとって基本的な人間への集団と己の関係を問いつづける行為としての、社会問題と芸術とにその発露はあると思う。
 この場合で言えば、先ず職員がひどい扱いをしだす。それはそのことへの声を上げれないような、親がいない・知的障害・おとなしい、といった弱い存在の子供である。始めは同じ子供として同情しながら、その子自身が自分の力で改善しようとしなかったり、する力がないとなれば、見ている子供のほうはそこから逃げれない。そうすると同情は悪意にすり替わる。そうすることで、情けないものをいること事態を見ることを避け、そうなるのは本人のせい、といじめに加担していく。
 改善というのは、本人が強ければそれで良いというのではなく、やはりどんな目に合わされようとも少しでも外へ向って言う、といった周りとしての改善の力なのではないか、と社会の問題として思う。
 その一方として、絶対に人間自身の内面に向う弱い部分のどうしょうもない暗闇、これはこれ自体として捉えなければならないと思う。それが例えば、じっと天井を見詰めて動かない、そうさせる理屈にならない人の心なのではないか。それを捉えて肯定も否定もしない、それ自体として昇華できる行為は芸術でしかないと思う。

 施設での隔離収容政策は今は、遠くに追いやっているかのような錯覚で、実は市民生活の中でこそ成功しているのではないか。益々現実のものとなってきているような気がする。     2003.3.4 金満里

 

 

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