古代から字を書く(掻く)道具である毛筆や印を刻む鉄筆。
文字を読み書き覚え、正しく能率的に書き記るすことさえできれば問題のない現代を生きるわたしたちには筆という不自由さをともなう道具はもはや必要のないのかもしれません。
ただ、ひとびとが字を書いてきた歴史を振り返ってみれば、文字が生まれ、時代や文化が成熟する中で、ひとびとは筆の動きとそこから現れる筆跡により複雑な表現を求めてきました。そこにあるのは文字の「骨格」を書く手の動きを柔軟に受けとめ、筆致として表わすことのできる筆による表現に対するひとびとの好奇心であったように思えます。
このワークショップでは古代におけるひとびとが文字の「骨格」として書いた「線」を追体験してみるところからはじめ、漢字を一文字書いてみることで、文字がつくり出された当時のひとびとの眼差しを想像しながら、書の源流を探ってみたいと思います。
「書というものには、この形がいいのだという定まった形もなく、この筆法がいいという定まった筆法もない。つまり、書のよしあしをはかる形式的なものさしも、技術的な基準もないのです。
それでは何によって書のよしあしを判断すればいいのでしょうか。それには、書のよしあしを定めるのはあなたの眼であるというよりほかありません。(中略)他人に見てもらうことはできないのです。自分の眼で見るんだと心に期してかかりましょう。
ところが、自分の眼が案外自分の眼になりきっていないということにも気づかなければなりません。(中略)日常見なれている活字などが頭にあって、自分では気づかないでも、それと比べ、それをものさしにして見ているのです。(中略)眼が狭くわくづけされふさがれているのです。(中略)そのわくを取り払い、じゃまものを取り去らなければ眼が本当に自分の眼にはなりません。
自分の眼は曇っていることに気づくことが、眼を自分のものにするための出発点であります。(中略)眼がどんなに曇っていようと、見るということは自分自身のことです。自分の責任において見るよりほかないのです。他人に代わって見てもらうことはできません。そうとわかれば、眼がじゅうぶんでないと自覚すればするほど見ることに真剣にならざるをえません。その真剣さのなかからよみがえってくる自分を信じて努力するほかありません」
(森田子龍「書」日本放送出版協会,1967)