『月下咆哮』に寄せて

 私は大野一雄さんの踊りにふれ、男の中にある女性を演じるその演技に衝撃を受けた。大野さんは、人間存在の深淵を映す鏡として、女を選んでいると思えた。女装でこそ表現できるものとして、宇宙をも響かす心の襞のようなもの、を差し出されたような気がした。

 それまで私は、自分は女(おんな)性からの脱却或は逃避として、障害者となることを選び、その自由を得てようやく真正面から舞台表現に向かえると捉えていた。しかし大野さんの踊りにふれ、その捉え方はまだまだ狭いのだと気付かされた。私の女をも、肯定しなくては、何も見えてこないのだと。私が気付かない、ありとあらゆるおんな性を含んで、やれる限りを尽くし、おんなを演じたいと初めて思えた。私は、その選ばれた女自身として、大野さんが差し出したものへ、今度は私の女からのおんなを演じなければならない番だと思う。それは単に悪女や聖母といった、二律背反的な世間から作られた女像ではないものとして、もっと言うなれば、それらもみんな含んでしまったものとしてのおんなを演じなければならないと思う。

 人間の持ち得る可能性の遺伝子の全てを、生物学的に有している原初の姿は雌である。完成形としての雌の遺伝子に、最後に遺伝子を一つ足すことで、雄になる。私が演じたいと思う女は、そんな本来の原初の生物としてのおんな性である。

 人間の持ち得る、聖も俗・悪も善も・正も負も、世に存在する全ての要素を有している果てしなき者として、この作品を作った。

 人として人を産む内臓としての女は、世の全ての苦渋からも逃れ難く、世の辛苦を生み出す存在なのかも知れない。その孕むということを、自らの内も外へも全宇宙に向かって、問いそして拓いていかねばならないという思いで作り上げた作品である。

金満里
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