情報誌IMAJU vol.51
特集・「ファン・ウンド潜伏記」韓国2都市公演


韓国人黒子が語る「態変の芸術は気合わせだ!」

ホンジョ

1.態変との出会い

 劇団態変は障害のもつ身体に対し、まったく新しい考えを持っている。態変の表現では障害者の身体は、物足りなさや欠乏に苦しめられることではなく、健常者が持っていない、自分自身ですら予測できないくらい自由に表現できる力そのものなのだ。

 2010年5月、私が通っているハジャ作業学校の生徒達はソウルのアチャ山にある正立会館を体験学習の一環で訪問した。そこに行く前に、一応身体障害者たちの身体表現のワークショップ、及び俳優選抜のオーディションがあって、そこで私たち学生らが手伝うことが幾つかあると聞いていたが、実は何をするかについてはよく知らなかった。しかし、その日私は実に驚くほど忘れられない経験をしたのだ。それは障害者にレオタードを着せることだった。壊れてしまいそうな彼らの体に、ぴったりとするレオタードを着せ、そして、舞台に上がっている障害者の動きを見ながら、私は「この人たちの身体はただの身体ではない!」と思っていた。そして私は「一体これはなんなのか?」と考え始めるようになったのだ。

 最初、私にとって態変の芸術というのは、考えたことない概念そのものだった。しかし、彼らの動きを見た瞬間、私は自分自身にこう問い掛けた。「障害は本当に不便なことなのか」、「逆に健常者の身体のほうがもっともどかしくて地味なものではないか」と。そして、「「美しさ」というのはそもそもどういうことなのか」という問いを抱くようになったのだ。これから、劇団態変と共に過ごした10ヶ月間について話をしようと思う。

2.黒子という存在

 劇団態変の作品は、身体障害者である俳優たちの身体表現だけで出来上がる。事実としてはそうなのだが、実はそこにはすごく興味深い要素がもう一つ隠れている。それは、自分自身を隠して、俳優が舞台に現れるように手伝う黒子という存在だ。劇の各シーンを作っていくのが俳優だとしたら、シーンとシーンの間の流れを作っていくのが黒子の仕事である。黒子は舞台の裏で劇がどういうふうに動いているのかを俳優より良く知っているけれど、舞台上に立つことはない。あたかも昼と夜があってこそ一日が流れるように、態変の芸術は、俳優と黒子がそれぞれの立ち位置で重なり合うことによって成り立つ。

 公演では、私は舞台上手の幕を担当する黒子だった。舞台と舞台裏を隔てる幕の際に立って、正確なタイミングで幕を開け俳優を舞台に出し、また迎える仕事をした。各場面を観ることはできないけれど、黒い幕を通して想像することはできる。黒い幕の裏は様ざまなものが芽生える夜の時間であり、俳優は各場面ごとに黒い幕を行き来しながら、再び日が昇るように舞台に現れるのだ。

 また、観客が感じる劇の時間と、黒子たちが幕の裏で体感する時間は完全に違うところも面白い。舞台上の呼吸が長くなればなるほど、舞台の裏は暇になるし、舞台上の呼吸が短くなると、舞台の裏は忙しくなるのだ。そのため舞台上と舞台裏の動きのハーモニーはそう簡単には生み出せない。黒子は、素早く・静かに・安全に、という三つの原則を守りながら、舞台の裏で黒い幕を操ったり、場面ごとに必要な道具や俳優のスタンバイをし、俳優の身体の調子をチェックする。単純に考えれば介護者だとも言えるかもしれない。だが、私たちが少しでも介護者のように振る舞うと、態変の黒子は厳しく(そして何度も)「あなた達は介護者ではありません。黒子です」と言う。黒子が障害者の助けとなるのは確かだ。しかし、それは身体障害者だから手伝うのではない。公演をつくっていく全員が、いなければならない大事な要素としてお互いに存在する。その中でこそ俳優と黒子はお互いに力を合わせ協力する関係なのだ。おそらく、黒子の持つ一番大事な要素は、幕の裏の時間と表の時間をつなげる通路としての役割を持つことだと思う。そして舞台は、その二つの存在が結実して表現を作りだす場、である。

3.態変の芸術は気合わせだ!

 「ファン・ウンド潜伏記」を通して、俳優と黒子、障害者と健常者が、お互いにどう違うか、どれくらい違うかについて考える機会を持つことができた。公演で得た芸術的経験を通して、私と周囲の関係がどう成熟していくか、私自身がどのように成長していくかについて考えるようになったし、人間について、美しさについて、ケアについての勉強にもなった。

 芸術というのはすごく大きくて硬いものに、小さな亀裂をつくるものだと思う。そしてその小さな隙間を通して物事が新しく循環し、チェーンのように繋がっていくものだと。劇団態変ではいつも始まりと終わりのときに、俳優・黒子・スタッフがみな集まって「気合わせ」をする。もしかしたら、態変の芸術も気合わせのようなものではないだろうか。お互いに全然繋がらなさそうな人々が、それぞれ違う形で、今まで違う立場にいた存在を繋げる試みだ。ファン・ウンドという人物が生きていた過去の時間と今現在を生きている人びと、障害者と健常者の体、美しいことと醜いこと、それらは、私たちがみな同じになるのではなく、どれくらい多様であるか、またそれらがみなどれくらい美しいなのかを感じさせてくれる。そしてそれらを越え、一繋がりになっている別の宇宙を想像させてゆくのだ。

 大阪からソウル、ソウルから固城(コソン)までの『ファンウンド潜伏記』の長い旅に、黒子として参加した間、初めてのことでミスもあったが、『ファン・ウンド潜伏記』という作品の下でみな一つに繋がった瞬間を長く長く忘れられないだろう。この第一歩の瞬間を思い出しながら、私は劇団態変が次の舞台でどのような宇宙を見せてくるのか楽しみにしている。


(訳 ソ・ユナ)


ホンジョ
劇団態変公演韓国側黒子・ハジャ作業場学校学生


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