情報誌IMAJU vol.51
特集・「ファン・ウンド潜伏記」韓国2都市公演


『ファン・ウンド潜伏記』韓国公演プロジェクトを終えて

ドンニョン

プロローグ

 昨年5月、峨嵯山[アチャサン]の正立会館でこのプロジェクトに参加することになった。韓国エキストラの選抜ワークショップだったが、最初は何もわからずに参加した。そのうちに黒子の役割をそこで学び、実際にやるようになったのだが、黒子の仕事だけではなく身体表現のワークショップもひじょうに変わった経験だった。舞台の上にのぼった障害者たちの姿も印象的だった。舞台上でレオタードを着て身体表現に熱中し、舞台の上で立ち回る光景は特異なものだったし、彼らが以前にはやれなかった動作をやりきって感動を感じることもあったが、その感動の内容はまだ曖昧模糊としている状態だった。その日の予定が終わって戻ってからその経験について考えてみたが、障害をもつ身体を肯定するとして、それでなぜ統制不能・予測不能の動きが芸術に昇華するのか、またどのようにして障害者が芸術家になるのかは、やはり理解することはむつかしかった。

 ともかく5月のワークショップ以後も、7月のノドゥル夜学校、そして選抜されたエキストラ俳優たちといっしょに動いた10月から毎月、今年3月の公演に向けて練習してきたその間、みんなで話し合い考えてきたことについて書いてみようと思う。黒子とは何か、劇団態変の芸術とは何か?

態変の芸術における「美しさ」とは

 態変の芸術は、身体障害者の身体がもつ予測不能で統制不能な動きによって、われわれの考える美とはそもそもなんであったかを問うことができるという。あえて定義すれば、態変の芸術とは、健常者の演劇や芸術をマネしようと努める「障害者の演劇」ではなく、むしろ障害者であるからこそ表現しうる極致を現実のものにしていると信じることだ。障害は克服の対象なのではなく、むしろ祝福である、と金満里先生は語っている。劇団態変ができたときにその最初の演技者たちに先生が言ったという「醜さを肯定せよ」という言葉も、同様に、醜いからどうだこうだということから離れて、あるがままのその姿を美へと昇華させよという意味ではないだろうか。

芸術家としての変貌、そして黒子

 障害者は彼らの身体によって舞台上で演技をおこなう俳優であり、芸術家へと変身せねばならない。彼らは舞台に上るためにメイクアップをし、身体の凹凸と線がはっきり現われるレオタードを着なければならない。そんな彼らを助ける存在が「黒子」と呼ばれる健常者たちである。黒子は原則的に黒い服を着て、演劇において「見えない存在」という約束の下で動く。俳優たちが存分に演技できるよう、黒子は彼らをそれぞれの位置へ移動させ、衣装と小道具、そして彼らが舞台へ出入りする袖幕をあつかう。芸術のために、影のように、闇のように、手足となって動かねばならないという鉄則がある。黒子たちの役割は、芸術を成立させるために、ひたすら俳優の演技のために存在することだ。

 レオタードを身につけて舞台の上に出ていくことは、初めての人にとってはとても恥ずかしくきまりの悪いことである。しかし俳優が、身体の形がはっきり現われるレオタードを着ても平気で演技ができるようになるとき、初めて俳優は自身の身体をはっきり示しながら舞台へ出ていき演技のできる芸術家への変貌を果たすことができるようになるのである。

 その経験が彼らにとってもまた黒子たちにとっても、恥ずかしくきまりの悪い感じをもつかもしれないというのは、彼らがそれまでにそんな経験をしたことがほとんどないからである。一般的に障害は見苦しいものとされているので、隠したり、できることなら見ない方がいいものだと思われてきた。正立会館でのワークショップ参加者の中には、その日に生まれて初めて外に出てきたという障害者もいたという。障害者が見えない存在となっているために、彼らがわたしたちの社会に共に生きているということを知らない人も多いのである。そんななかで障害者がレオタードを着て舞台の上に姿をあらわし、演技をくりひろげる芸術家になるということは、通念に対してある意味をもつ。

 繰り返して言えば、障害はふつう同情と克服の対象と思われており、そのため障害者は不可視の存在となっているのだが、その彼らが「芸術家として身体表現によって人間と美の前提そのものを問う」芸術家へと生まれ変わるのである。これは自分自身にとってまったく新しい存在方式であるのだ。態変の芸術のなかで、彼らが障害者ではなく俳優、芸術家として生まれ変わるためには、健常者である黒子たちが、引き受けたその役割を忠実にきちんと果たさねばならないのである。生活補助をも兼ねて行うのではあるが、これは徹底して黒子として芸術を完成させるためのものであり、ヘルパーとして誰かを助け奉仕するためではない。徹底して態変の芸術という器材[うつわ]をとおして、必要にしたがってたがいの存在方式を確認し、ひたすら最善をつくすのである。

新しい世界を媒介する

 先に述べたように、態変の芸術という器材[うつわ]をとおして障害者と健常者は俳優と黒子という本質をもつことになり、それは既存の常識的な理解とはまったく異なる次元に位置している。不可視化された領域にある障害者が舞台上で演技者へと変貌すること、そして「一般人」と信じていた健常者が黒子となって、闇のように動く見えない存在となるのだ。舞台上ではこれまで見たことのない身体表現の芸術が観客たちに美と人間についての前提を問い、それをとおして観客たちは、新しい理解がくりひろげられる舞台上の新たな世界に出会うことになる。それ自体が芸術的経験であり、その新しい世界がもつ言語を理解できないならば、「障害者の演劇」と理解することもできないだろう。

 黒子はまるで「闇」のような存在となって黒い服と黒い袖幕をとおして、観客に、芸術として繰り広げられるもう一つの世界に対面させる。黒子が「媒介」としての役割をもつのである。徹底して媒介として舞台の外と舞台の上を連結させることをとおして、態変の芸術は成立する。黒子は「媒介」の役割を遂行する影でなければならない。

 このプロジェクトに参加しているあいだ、ハジャ作業場学校の学生たちが、劇団態変の黒子やスタッフたちからしばしば聞いた言葉は、「ヘルパーでもボランティアでもなく、黒子だ」ということだった。黒子として演技を助けながら、同時に食事やトイレなどの生活補助も兼ねるのだから、同情(pity)と共感(empathy)のあいだでとまどうこともあった。ある学生は混同にともなって感情の変化の幅が大きくなったという。プロジェクトが終わったあと、学生たちの大多数の反省文[レヴュー]を見ると、「障害者は、考えていたよりもずっとわたしたちに近いところで生きており、自分たちと違うところが一つもないまったく同じ人間だった、だから偏見が崩れ去ったようだ」といった内容のものが主だった。

 わたしの解釈は少し違うのだが、芸術的な観点においては、障害者は健常者とはまったく違っているからこそ、わたしたちがこの芸術世界の中に入って黒子の仕事をとおして、芸術とは何であるか、人間とは何であるかについて美学的な勉強をすることができたのではないか、と思う。態変の芸術とは、わたしが理解したところでは、非常に常識からとびはなれた異質性をもっている芸術であるようだ。常識的な存在はこの芸術という器材[うつわ]をとおして、最初から新しい存在方式へと変わる。その時間と空間において芸術の一部として出会う人びとは黒子と俳優という本質をもつことを要求される。その時空間で出会う人びとは芸術の一部とならねばならないのである。各自の役割をとおしてもっとも美しいものを追求していくあいだは、個人的な関係ではありえないのである。

 態変の芸術の世界ではわたしたちは黒子と俳優として演劇を創り出し、互いに尊重する関係として出会うことはできるが、芸術ではない状態において、個人と個人として障害者と健常者が出会うとすれば、それはずいぶん違う問題となる。たがいの生の条件と姿があまりに違っていて、どのようにお互いの世界を理解し生に介入するのかの準備と時間なしにいたずらに出会うことはできないし、ついには理解もできず、たがいに傷だけを残し合うかもしれないからである。わたしたちは、まさに芸術の世界で出くわしただけなのである。

まとめとして

 この10カ月間進行してきたプロジェクトは、ひじょうに特別な経験だった。忘れることができないほどの強烈な経験でもあった。

 黒子頭[かしら]になって練習をひっぱり、責任感を持ってやらねばならなくなったが、ときには「これはわたしにとってやっかいな仕事だ」と思ったこともあった。黒子として障害者に出会い、彼らを俳優へと脱皮させながら、わたしたち自らもしだいに「黒子」になっていく過程は、たやすいものではなかった。

 まったく異なった種類の人びとに出会い、いっしょに何かをしていかねばならないということ、何が違うのかに一つひとつ気づき、どう理解すべきかなやまねばならない、このすべてが新しい世界に出会うように興味深いことだったが、同時に責任感を感じざるをえないことでもあった。舞台の上で身体表現によって演技する人びとは俳優だったが、別の意味においては演劇を完成させる黒子たちもまた演技者だった。この演劇をとおして観客たちは自分の見ていることが「美しさ」の、また「人間それ自体」の普遍的な前提について問うているのだということを知ることになるかもしれない。そういう芸術的な経験をすることができたとすれば、うれしいことである。

 しばしば「新しい世界」という表現を使ったが、このプロジェクトをとおして、いつかはこれを目新しいと表現するのではなく、わたしたちが多様性とか人間と呼ぶものの定義にはもっと多くのものが含まれているべきではないか、ということを考慮に入れなければならないだろうと考える。

 黒子という媒介者の役割を通じて多様な世界に出会えたと同時に、このプロジェクトに参加して無事に成功裏に終えることができたのは、本当に大きな幸運だった。プロジェクトは一段落したが、ここで立ち止まらずにこの体験の記憶をもちつづけてこれからも進んでいくことになりそうだ。


(訳・愛沢革)


ドンニョン
劇団態変公演韓国側黒子・ハジャ作業場学校学生


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