態変 韓国プロジェクト
2009-2011

公演 「ファン・ウンド潜伏記」
当日パンフレットより

2011年3月公演
『ファン・ウンド潜伏記』が、韓国公演という、この日を迎えられたことへ

 このパンフレットの冒頭へ、皆様にこうしてご挨拶をさせていただけることを晴れがましく、又緊張感を持って臨もうとしています。
 それは、私が日本で立ち上げた劇団態変が29年間の集大成のような公演と、この韓国公演がなるであろうと予想できるからです。
 劇団態変は身体障害者の身体表現を、これまで誰も考え付かなかった方法でしか成り立たなく、それは芸術そのものの在り方を塗り替えざるを得ないことへ挑戦し続けてきたということです。

 これまでの人類有史史上に於ける芸能での障害者や病身者は、圧倒的多数とする健常者の視点でしか描かれてこなかったといえます。そこでは、笑い者の道化か何かの比喩としての登場であり、決して障害者自身の内的世界観が謳歌される身体性ではなかったといえます。

 私は、人間普遍の内的世界観を表現する、身体表現を模索したいと思っています。
 人類有史史上に於ける身障者に対する障害の捉え方を、そのままに放置するのでは勿体ないぐらいの、身体に宿る精神のありかとしての身体表現を、身障者の身体表現で可能にできるのではないかと捉えます。身体表現が、技術として何かを習得し器用な踊りを見せる、というコントロールの成果の結果を観せるのとは違った、それとは対極な発想です。
 身障者の身体表現を追求するというのは、障害者自身が自らの身体への価値に気付き、普遍的芸術へと昇華させられる確信のみに於いて、可能だと思います。
 それは、大多数の人々の価値自体を、芸術は、一瞬にして転倒するに充分な力を持ち得ています。
 芸術とは、芸術がその力を発揮できるかどうかを、創り手と観客といった真に追求すべき人々の出会いを、待ち望んでいるのではないでしょうか。
 
 韓国古典芸術という私を育んだ土壌と、私が日本の地で産み出した前衛芸術の劇団態変、が今回の『ファン・ウンド潜伏記』韓国公演で、異なる二つが出会える貴重な機会を得られましたこと。そして常に二つの要素、韓国の障害者エキストラ8名とハジャ作業場学校の生徒黒子10名、日本から来た劇団員とが合流し、今回の混成劇団態変が新たに誕生しました。
 そしてそれを支える、韓国と日本の市民によるそれぞれの国での実行委員会ができ、公演までの7回に渡る渡韓してのプロジェクトを進めるに至ったことで、この日へと劇団態変『ファン・ウンド潜伏記』韓国公演の船を運んでこれました。

 観客の皆さんに迎えられ、この公演を果たせたことへ、劇団態変を代表し心より光栄に思います。

 そしてこの公演実現へ向け、固城での固城新聞と固城五大広李潤石代表、ソウルのホールであるKOUSプロデューサ陳玉燮さん、の多大なる理解と協力がなければこの日が成り立たなかったことへ、深く感謝致します。

 最後に『ファン・ウンド潜伏記』は、ソウルとファン・ウンドの故郷である慶尚南道固城、の二ヶ所で韓国内連続公演を果たします。 

金満里
2011年9月公演
 本年3月にソウル・固城で上演した『ファン・ウンド潜伏記』が早くもこの9月に再演の機会を与えられましたことを大変光栄に思います。

 ファン・ウンドは固城出身の実在の人物であり、その縁で、固城五広大の李潤石先生には前回公演時に多大なるご支援をいただき、更に、特別出演として朴璟琅先生と出会うことができました。そのご縁の発展として今回の再演が実現したわけであり、深く感謝するものであります。

 さて、私ども劇団態変は、身体障害者による身体表現という、芸術のありかたそのものへの問い返しを内包する営みを29年間にわたって追求してまいりました。それは、人間普遍の内的世界観を表現する身体表現の模索として挑戦してまいりました。
 人類史の中で多数派であった非・障害者からの身障者に対するネガティブな捉え方でもって放置するのはもったいないくらいに、障害者の身体には芸術表現の宝が潜んでいると私は信じてこの挑戦を続けてまいりました。精神の宿る身体表現は、身障者の身体でこそ達成できる面もあるかもしれません。身体表現といえば、技術として何かを習得し器用な踊りを見せる、という身体コントロールの成果の結果を観せるものという先入観があると思われますが、それとは対極な発想です。
 このような芸術表現を、先端的な前衛芸術として私どもは追求してきました。

 ところが、3月に固城において、民俗芸能の粋とも言える固城五広大と、古典舞踊の朴璟琅先生が我々の前衛身体表現に合流し共演してくださり、作品に驚異的な深みを加えてくださいました。  
 芸術の達成は、ジャンルを越えて、それを真に追求すべき人々同士の出会いがあって、更に深くその力を発揮できるのだと、実感する機会でした。
 今回の再演では、更に踏み込んだ形で、韓国の敬うべき伝統に根ざした古典芸術と、私が日本の地で産み出した前衛芸術の劇団態変との共演を試みます。これまで出会うことのなかった異質な二つが『ファン・ウンド潜伏記 -朴璟琅 同行の新たな旅路-』によって正しく、真に芸術を追求すべき人々の出会いをここに実現しようとしていると思います。
 
 この場にお越しいただいた観客の皆さんへ、劇団態変を代表し心より感謝致します。
 加えまして、この再演のために多大なるご尽力をいただいた朴璟琅先生、また遠路客演に駆け付けてくださった、固城五広大・李潤石先生、統営別神クッ・チョンヨンマン先生へ、尽くせぬ感謝を致します。 

金満里
偶然な縁

 3月24日のことでした。国立釜山国楽院での公演の最中、突然公演の誘いを受けました。とりあえず一度ソウルに戻った後、国立国楽院 文化学校の授業を終えて急いで固城へと向かいました。
 李潤石会長の電話一本を受けて、あわただしく劇場に到着し4時の公演前に10分間打ち合わせ、衣装もあるものからあれこれ組み合わせ。役柄はチェ・スンヒ役ということで6分程度の短い踊りをということでした。
 劇場では重度障害者たちが行き交い、舞台裏にはたくさんの公演を進行するスタッフたち。どうして李潤石会長は突然こんな公演にわたしを呼んだのか・・・と少々の疑問も抱きました。前もって計画していた公演でもないわけで、まあ6分程度踊ればいいのか、と考えていました。作品の内容も把握できないまま、演出と細かいうちあわせもできないまま、自分のシーンのみ考えてリハーサルを終えるとすぐに公演が始まりました。
 呼吸を整えながら、即興ではあるけれども公演の意味を理解して踊らねば、そう思いパンフレットをひとつ手にとって読み始めました。すると頭を打たれるような衝撃を受けました。
 この公演に突然ではあるが参加することになったのは、単純でそう簡単なものではないと直感し、もう一度公演の意味と重さを感じ少しの間でも楽に考えていた私自身に恥ずかしさを感じました。
 公演の流れを見たいけれどもすでに1部は始まっており、仕方なく2部公演の始まりとともに舞台の上で障害者の踊り手達と即興で対話しながら作品を構成し、チェ・スンヒ役を演じはじめました。6分間の役割を果たし、舞台を降りて客席に座り、残りの舞台を見守りました。
 パンフレットにある公演内容は台本形式になっており、この舞台をともにできたことをもう一度李潤石会長に感謝しながら客席にいる間中、ずっと心の中で何かが蠢いていました。
 心の底から有難く思い、またこれはわたしにとっての何か尊い縁がつながったのだと感じたくさんの考えがあふれ出して来ました。
 世界で一番美しい人間の身体、その人間の身体がもつ意味の中でこの公演においては障害・健常の区別は何も意味を持たなかったのです。
 むしろ私のような健常者が簡単に見落としてしまい、嵌りがちな思考と日常に潜む障害の要素が舞台上ではさらに浮き彫りにされるという考えを晒しながら踊っており身体を使う者である私自身が粛然としながら彼らに対する心からの尊敬と彼らが真に美しい身体を持っていることを実感しました。謙遜と尊敬、尊重の念が自然とわきあがってきました。
 障害とは身体障害にのみ限定されるものではないと悟りました。
 そして、すべての障害は自身の心から始まり、そして幸せもまた、自身の心から始まるものだと実感しました。
 精神的障害、心の障害は障害の中でももっとも大きいものです。すべてを支配するもの、わたしの人生の歴史を支配するものは他人ではなく自身の心だということです。
 彼らは新しい希望であり、その希望を見ながらまた心の痛みも共に感じました。
 そして頭の中に浮かんだ考えが、今日舞台上で彼らが表現できない隠された心と動きをわたしが代わりに受け止めてあげたい。もちろん彼らに追いつかない動きになるかもしれないが、彼らができない心苦しさの動き、身体の言語を代わりに埋められたら、新しいセンセーションを起こすことが出来る、そう思ったのです。
 彼らが持つしかなかった息苦しさとは何であり、だからこそ彼らの悲しみや痛みが何だったのかが伝わってくるようであり、公演後は心が痛みました。
 瞬間、瞬間こぼれそうになる涙を胸の奥に残して、心を決めました。
 共同制作をやってみようと決心し、打ち上げの席で私の意見を恐る恐る提示しました。幸いにも満里先生と合意し、ただちに共同制作をはじめる道を歩み始めました。
 偶然にも満里先生は母の影響で教坊チュムに関心があったといいます。母が有名な舞踊手であり、本人もその才能を自然と受け継いでいたにもかかわらず3歳で小児麻痺を患い障害者になり、その才能を発揮できずに、だからといってその才能を捨てることもできず生きていたという点において、互いに早い段階で共感し共同制作をスタートさせました。
 演出は満里先生が請け負い、わたしは音楽と、重要なパートでの動作的に不十分な完成度を必要な部分でだけ担当し、この作品の本質を損なわないように、できれば補強できるような形で今回の公演を準備しました。
 満里先生をはじめとして、共に貴重な縁をむすんでくれた団員、スタッフ達に感謝の気持ちを伝えます。また、共に踊れることを舞踊手としてこの上ない幸福を感じさせてくれる舞台になると信じて、この縁にもう一度感謝したいと思います。

パク・キョンラン



パク・キョンラン
慶尚南道固城生まれ。伝統仮面舞踊劇、固城五広大の名人であった外祖父の影響もあり幼い頃より舞踊に親しみ、故キムスアクなどに師事しながら独自の舞踊世界を体得、その圧倒的な技量と、芸妓の流れをくむ流派の舞や文化を研究しながら公演や普及に勤しむ最も活動量の多い舞踊家として有名である。
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