金満里ソロ公演

寿ぎの宇宙

劇評



生と死の極点
愛する者を弔う時間

田中誠司

 2013年10月13日(日)、劇団態変の本拠地であるメタモルホールにて、作・金滿里、監修・大野慶人による、金滿里4作目のソロ公演『寿ぎの宇宙』を観た。この舞台は「手繰り送り」「魂の集い」「巡礼 五体投地」「天上界の穴」「無情の宇宙 鶴の舞」という全5場によって構成されている。

 「トプン、トプン」大きな革袋の中で豊かな水が揺れている。冒頭、暗闇の中から現れた金滿里のカラダは、まるで大きな命のゆりかごだった。そのたゆたう肉体をじっと見つめていると、クラクラするほど、なんともエロティックで幻想的である。この感覚はいったいどこから来るのだろう。あっ、そうだ。すぐさま「縄文のヴィーナス」という言葉が浮かんで来た。

 それにしても、かつてこれほどまでに美しいカラダを見たことがあっただろうか? このカラダから感じるものには、どこかしら懐かしいものがある。ぼくはそれを知っている。遠い遠い記憶。どこまでもあたたかく、大いなる安心に包まれていたときの記憶、それは、生まれる前の命の匂いか・・・。そのうちに目の前にある金滿里のカラダがまるで子宮そのもののように見えて来た。「トプン、トプン・・・トプン、トプン・・・」ふと気が付いたときには、外から子宮を見つめていたはずの自分が、いつしかその子宮の中に完全に入ってしまったような不思議な感覚に包まれていた。その瞬間、ぼくはこれから始まるこの舞台が「生と死にまつわる神話」であり、自分は今から、金滿里の肉体の宇宙に包まれた「未知なる祝祭」に立ち会うことになることを直感的に理解した。

 第2場「魂の集い」では、観客はさらなる領域に導かれる。金滿里は6体の人形を伴い舞台に現れた。舞台監督も務めた吉田顥が制作したあまりに秀逸な人形たちは、かつて劇団態変で活躍した今は亡き同胞たちを象っている。それらの人形の出現によって、舞台は一気に死者たちの場所に変容した。死者たちは確かにそこに存在し、生きていた。死者たちに息を吹き込み、魂の世界で寿ぎの祭りを繰り広げるのは巫女である金滿里。それはまた、死者と共に遊び、愛する者を弔うかけがえのない時間であった。それにしても、その人形一体一体を見つめたり、揺らしたり、頬ずりしたりする金滿里の行為をどう表現すればよいのだろう。「なんという愛おしさに満ち溢れた表情であろうか」その時、なぜか、ふと彼らが金滿里と過ごしたであろう長い長い時間のことを思った。おそらくそれは、想像を絶する激しい時間であったのではないだろうか。甘えなど一切ない、嘘のない命と命の真剣勝負であったのではないか。であるからこそ、今、ここに、生と死を隔ててもなお、込み上げて来る愛おしさと圧倒的な信頼が存在するのではないだろうか。

 後半、死者たちの存在が劇場全体を包み出すにつれて、メタモルホールはさながら大いなる弔いの儀式の場へと変容する。当然、それに伴い観客も、共にその儀式に参加することになる。第3場「巡礼 五体投地」第4場「天上界の穴」と、生きている者の喜びと悲しみ、死者たちの喜びと悲しみ。そしてそれらが宇宙という広大な魂の世界の中で溶け合い、やがて再び母のお腹の中に宿るまでの壮大なドラマを見ているかのようだった。  「トプン、トプン・・・」長い長い魂の旅を経て、再び「縄文のヴィーナス」という言葉が浮かんで来た。

 人が何度死のうとも、女は何度も妊み、産む。そのシンプルだけど圧倒的な命の不思議。魂の不思議。女性のカラダは宇宙も魂も、生も死も内包しているのだろうか。

 この舞台で一体何が行なわれたのかは、とても言葉で説明することは出来ない。ただ一つ言えることは、これは紛れもなく「愛する者を弔う時間」であったということ。それは、しそうや観念ではなく、肉体と魂に直接訴えかけて来るものであるということ。

 この日、金滿里の舞台に立ち会った者たちは、「生と死の極点」すなわち生者と死者が交わる儀式に立ち会うことを許されたのだ。ぼくの知る限り、舞台においてこのような世界を生み出せる者は稀である。そのような思いが巡って来たとき、目の前のヴィーナスがはっきりと大野一雄の魂と重なった。

 論理を遥かに超えた景色を前にしながら、古代の人々がこの舞台を見たらどう感じるだろうか? そんなことをぼんやりと考えていた。

この日、ぼくは確かに金滿里の世界に中にいた。

なぜだろう、愛おしさが込み上げて来る。

あと何度、サヨナラが言えるのだろう。



『寿ぎの宇宙』が切り開くもの

貫 成人

 「健常者/障碍者」という区別に、はたしていかなる意味があるのだろう。ー金滿里、あるいは彼女が主宰する『劇団態変』のステージを見るたび、この問いが心に去来する。

 お世辞にも「豪華」とは言えない日暮里dー倉庫。だが、殺風景な舞台は、金満里が登場したとたん、一気に濃度を増す。三歳でポリオにかかり、全身麻痺に陥った金は、自分の足で立つこともかなわず、床に転がったままである。そのまま前に進むため、彼女は、僅かに動く胴体や腕を懸命に動かす。とはいえ、短く、自由に動かない腕で前進することはできず、胴体を揺らし、重力の反動で進むしかない。身体に密着したレオタードが、彼女の、尋常ではない身体を強調する。じれったいほどゆっくり、少しずつ、舞台下手前から奥へと進む肉塊。今にも崩れ去りそうなその姿は、人の姿とさえ見えない。舞台に通常、登場する役者や舞踊家の、美と健康、強さ、技のキレや速度を誇示する身体と、それは対極に位置する。

 だが、目を見開きながら、僅かずつ前進するその姿を凝視する内に、いつの間にか、なにか別なものが見えてくる。普通ならすぐに到達できる距離が、極限にまで引き延ばされ、はたして彼女は目指すところに到達できるのか、緊張と不安が高まるなか、はっきり形を作るもの。それは、彼女の身体に滾る、是が非でも目的を達しようという、強靱極まりない決意、一切の妥協を拒む意志である。

 それは演技ではない。まして身体技法の誇示ではない。舞台に観者が見るのは、金滿里という存在、その真実だ。そこにはなんの飾りも偽りもない。韓国舞踊の名手を母に持ちながら過酷な現実に巻き込まれ、にもかかわらず、他人にはおそらく想像すらできない苦難の果て、常人には達成できないことを実現し、また、これからも苦難に立ち向かう、強烈な意志がそこにはある。

 そのような存在がかつていただろうか。現実を直視する「真摯の美学」といえば、ドイツ表現舞踊の旗手マリー・ウィグマンが思い浮かぶ。だが、映像に残る彼女のすがたは、あらかじめ定められた振付を、技術によって演じたものだ。アメリカンモダンダンスの神話マーサ・グレアムは人間の真理をメッセージとして伝え、コンテンポラリーダンスの母ピナ・バウシュは、ダンサーの実存を観客にぶつける。だが、それぞれは、演じているダンサーの一部の真実でしかなく、他のダンサーによっても代替可能である。金滿里の作品をかわって演じられる者はいない。それは演技や技術、名人技、などではなく、彼女の存在、人生、実存そのものだからである。

 金滿里の存在に唯一、比肩しうるのは大野一雄である。『アルヘンチーナ頌』などの作品もさることながら、なんといっても印象に残るのは、100歳近くなり、自力で歩くことができなくなった大野が、車椅子で舞台にあがった姿である。もはや片腕だけしか動かせなくなった大野は、その片腕を、まるで何かを空中に放り上げるかのように動かし、上から落ちてきたものを受け止める。その瞬間、空中には花びらが舞う。そして同時に、かつてのようにはもはや動くことができない老人の、舞踊への憧れ、抑えきれない欲望が迸る。見る者は涙するしかない。下手前から奥へ、上手前から奥へと、重力の反動を利用しながら進む金の姿から立ち上がるものは、大野をはるかに凌駕する。それは、「障碍者」として、「在日」として、幾多の困難を乗り越え、これからも立ち向かおうとする彼女の実存、彼女を取り巻く世界そのものである。

 やがて、舞台に起きた金は、七体の人形を出して並べていく。愛おしむように頬ずりをし、祈るように床に立たせていくその手捌きは、過去の故人をたぐり寄せるかのようだ。人形とは、「ひと」の「かた」だ。1983年創立以来、劇団態変の多くの団員が故人となった。トレンチコートを着て、やや見あげるようなキメのポーズが無闇に渋く、かっこよかった福森慶之介、首が曲がり、手の指や手首、肘がこわばったようになりながら破顔一笑がはじける木村年男、また、ゲリラ・クヨクヨ、斎藤孝文、柏木正行、かんたろう、三宅光男、というひとびとである。金にとっての大切な盟友であるとともに、観客にとっても忘れることのできない存在だった。

 白いチマ・チョゴリに烏帽子をつけた金滿里は、時と空間をまたぐ巫女のように舞台に屹立する。祈るように上体を折り、一瞬のためのあと、上半身と腕による優雅な舞いが続く。宙をはっしと睨む、力のこもった目。華やかなキメ。それまで溜めに溜まっていた大きな塊、地球の重力、故人への想い、幸福な、あるいは不幸な記憶、うずまく情念が、彼女のゆるやかな、あるいは激しい動きとともに一気に解放され、劇場を満たす。劇団態変の亡きメンバー、金と親しかった大野一雄、災害や事故などで亡くなったすべての人へと捧げられた祈りが、宇宙全体を満たし、観客に襲いかかる。見る者は、いつのまにか鳥肌が立ち、涙腺が緩んでいる。

 全体は五つのシーンに別れ、各シーンには「手繰り送り」「魂の集い」「巡礼」「天上界の穴」「無常の宇宙」という標題がつけられている。2013年に初演された『寿ぎの宇宙』は、直前の3・11の犠牲者への祈りのための作品であったという。今回は、昨年の相模原障碍者大量殺人事件への想いも付け加わる。それは、なくなった多数の人々を、単に偲ぶのではなく、死者を「呼び起こし、呼び覚まし、その声を聴」くための祈りである。この祈りを金は、「体を地面に打ち付け、身体を全面的に捧げる」「五体投地」とよぶ。地を這い、重力を目に見えるものとする彼女の身体は、そのままで、眠っていた大地を鋤き返し、天地を掻き混ぜ、神々を目覚めさせる、五体投地の祈りにほかならない。

 1997年ベルンで上演された『DEPARTED SOUL(死霊)』など、劇団態変としての作品が、登場する各人の個性を十分に活かした、パワフルな舞台であることは言うまでもない。だが、『ウリ・オモニ』など、金滿里ソロ作品は、重くて深い彼女の存在と、独特の華によって、異次元の境地にある。それは、人並み外れた苦境を乗り越えて、常人にはいたり得ない高みへと到達した、金滿里というひとつの作品のドキュメントだからである。

 ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』はヨーロッパにおいて、「理性」が出現した過程を描いている。ルネサンス期には神に近いものとして尊重された「狂人」「狂気」は、近世において「理性の異物」として隔離され、近代には、治療と称して虐待された。だが、それは、狂気を隔離することによって、自分たちを「非狂気」、すなわち「理性」とする営みだった。その結果、この書物はどんでん返しで終わる。西洋近代は、狂気のおかげで理性的存在と自認できたのに、狂気をつねに疎外してきた。理性は、その罪で被告席に立つべきである。

 金滿里の舞台によって問われるのは、障碍者ではなく、健常者のあり方だ。金滿里や劇団態変のひとびとの身体は、どれもユニークであり、独特である。通常、意識することのない重力など、ふだんは見えていないものを可視化し、他の誰にもまねのできない真実を観者の目に突きつける。それに比べると健常者の身体はどれも均質で標準化され、無表情だ。金滿里と劇団態変は、「健常者」の貧困を露呈し、自明と思われたその存在根拠を足下から掘り崩す。こうして金満里は、近代という歴史そのものを転覆するのである。


ぬき・しげと
舞踊批評、哲学・現代思想研究

閉じる