マハラバ伝説

 

劇評

 

「もの語る」ということ

小暮宣雄氏(京都橘大学文化政策学部助教授) 

2002/2伊丹公演

「ヒューマニズムの否定」は近い 

西村博子氏(タイニイアリス・オーナー)

2002/2伊丹公演

 新しい身体の世界

Von Petra Bail

2005/6ドイツ公演

 規範の枠組みを超えて

Claudia Gass

2005/6ドイツ公演

「マハラバ伝説」- 挑発する愛の営み 

Brigitte Jahningen

2005/6ドイツ公演

 

 

「もの語る」ということ  小暮宣雄氏


伊丹・アイホール共催/劇団態変『マハラバ伝説』作・演出:金満里。去年ベルリンで初演したが、日本では今回が初演となる。4公演のその最終公演。楽日なので、本公演終了後、役者以外に黒子大勢や舞台監督(塚本修)、照明(岸田緑)、音響(秘魔神)スタッフまでが紹介される。

立ち上がって去ろうとするお客さんたち。ところが、音楽がまた流れたかと思ったら、アンコール的に態変の人たちがまた踊り出た、今度はにこやかに伸びやかに自分の身体のままで。この作品がかなり物語性を全面に出した無言劇の様相を呈していたので、やっといつもの態変に特徴的な身体性をも直接眺めることができ、ほっとした気分。そして15:41にすべてが終了。

燐光群の坂手洋二さんが、週末の名古屋の世界劇場会議とか演劇人会議などで名古屋に来ていて、今日ここではじめて態変の舞台を見れたと横に座って話している。いつもとはどう違うのですか?とか、服を着てまた脱ぐというのはどういう象徴でしょう?とか坂手さんから尋ねられる。が、こちらも金満里さんではないから要領よく答えることも出来ず、少しだけ最近の態変の様子を伝えるのみだ。つまり、私がはじめて態変を観たのは大野一雄とここで一緒にやった舞台からで、最近は結構生死のシンプルな表現や、自分の母親への純粋な思いを表現したりしていた。確かに身障者の舞台への参加を進めたりはしていたが、社会政治的な主題はダイレクトに現れないものが大半だった・・・と。

私は劇団態変を、言葉を伴わない身体表現のなかでも特に広義のコンテンポラリーダンスとして鑑賞しているし、その部分で、とても強度のある身体表現だと思っている。したがって、今回でもそういう目線で6割ぐらいは見ていた。だから、アンコールはいつもの井上朋子の動きが見れたりして美味しいボーナスになったわけである。

もちろん金満里自体は従来のジャンル分けに組みせず、従って自分の表現をダンスとは規定しないで単に「身体芸術」と述べ、そのなかでも抽象度の高いものが91年以降の最近の作品だった。その上に今回は、「抽象の上に具体を織り交ぜ、どちらにも傾かない身体芸術としてストーリー性も伝えられる」身体表現を企図したと当日パンフで語っている。

 

13:39〜14:34。第1部「命からがら逃げてきた」。上手から中年のCP(脳性麻痺)の男(林田伸一)が出てくる。起きあがろうとしては、胸からばしゃんと床にダイブする。じわじわと匍匐前進することを拒んで、身を投げだして何かに抗議しているようにも見えるし、それが彼流の歩みかも知れないと思ったりする。

次に小泉ゆうすけが寝る姿勢で登場する。坊主頭。顔全体が前見たよりも厳しい感じ。目つきも鋭い。金満里や福森慶之介、そして若い橋本雅紋が登場。一気の展開である。音楽が西洋クラシックの弦楽合奏。これがちょっと性急すぎるような感じもする。この音楽は、劇的な=パセティックな感情移入を客席はしてしまいそうで、ちょっと正直言って違和感が走る。が、ふとソクーロフの「マリア」の後半の初め、どんどん道を行く映像と音楽の組み合わせが思い出されて、少し気を取り直したりもした。

5人が集まる。小泉の腕が上にある。少し滑稽な足の造形を見せる林田伸一。

13:48。幕が開く。奥の正面に曼陀羅。これは、1960年代に茨城県千代田村閑居山願成寺にできたCP者のコンミューン、「マハラバ」のコミューンの門なのだろうと思う。

祭壇があったが、金満里の退場と共にそれが持ち去られている。これは、佛という宗教の中心を祭る場から「健常者幻想」を破壊する激論のための場にここが変わったことを意味しているのかも知れない。

金満里が茶色の布を法衣のように身体につけてやってくる。白い鶏を抱える。首を噛みきる満里。白い胴体は下手へ、鶏冠の首は上手へ放り出される。健常者を心理的に抹殺する儀式?あるいは、障害者の力の発意?満里は両手を使った動きを少し執着的で神経質に行っている。

ここからこの公演でもっともインパクトが強く美しさと緊張感が渾然自在となったシーンへと進む。茶色のレオタードの小泉と福森が、両側から相似形で登場。腰を降ろして膝を「山」形にして進む姿勢だ。満里が残した薄い茶色の布を、小泉は足指で福森は手指で広げて。

軽い音楽。5人の他に、外部の人のような井上朋子がリヤカーで大小の箱を持ってくる。みんなに拒否されるが、大きな箱は残される。中からはネクタイやビジネス鞄、着物に大きなスプーンなどが出てくる。

それから、どれほど時間が経ったのか、どういうことが変化したのかは定かではないが、再び身に付けていた衣装や鞄を投げ捨て、紙と筆が持ち込まれる。

福森と橋本がそれぞれの紙に一気に4本のスローガンを書く。CP者であることの自覚や愛と正義の否定、健常者幻想をなくし自己主張を行うことなどの過激な言葉が大きく中空に吊される。ここで休憩。

 

14:45〜15:34まで。第2部「回想、ゲトーから死への行進」、第3部「土着と浮遊性」。2つは続けて演じられる。包帯が5人に巻かれている。満里が先頭になって並んで前へ進んでいる。包帯がほどかれる。それからのシーンは少し長い感じがする。

15:02。暗転、前の門とスローガンが見える。門が照明の関係か、前よりかなりシミがついているように見える。優しい民謡風な音楽が流れる。恋愛のシーン。素敵なデュエットの踊り。第2部から出てきた中尾悦子にぴったりとひっついて転がっていく小泉ゆうすけ。でも、押しつぶしたりはしない。それぞれを愛撫する腕、確かめ合っている触手同士。雄しべと雌しべでもいいし、カタツムリの触角とか蛸の睦み合いなどを連想する。

上になる小泉もうまく小さな腕で彼女に体重を乗せないで、しかも熱い気持ちだけを流し込むように重なり合う。小泉が中尾を守るために周りを雄の本能のように見回りをしたりする。他方、金満里と林田伸一もカップルになって近づいている。小泉が花嫁を表す髪飾り(ショール?)を2つもってきて、満里もつけ中尾にもかぶせる。中尾悦子に恋する人がいっぱい出るだろうなと思った。

赤ちゃんを福森がトロッコから乗ってくる。福森は父親になったようで、それは役割を持っているのだが、もう一人の橋本には何もない。恋愛によるコミューンの変質問題。橋本が中尾を奪うような行動をとる。小泉が暴力をふるう。橋本と小泉の格闘。橋本を取り押さえる福森。

障害者の恋愛と出産(結婚願望)、横恋慕、嫉妬、葛藤、暴力などなどが一気に出てくる。北風の音。そういえば冒頭は障害者の息する音だった。井上が一人出てくる。何かに気づいてかがみ込み、驚くことを繰り返し、去っていく。

【KOGURE Journal/Express:Report@Arc】vol.809
配信/2002年2月19日

               


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「ヒューマニズムの否定」は近い 西村博子氏(タイニイアリス主宰)


威容を誇る、まるでカフカの門のように人を拒否する山門。その遥か遠くにある、決して到達できないような曼荼羅と高く険しい山々。そこへ人々がやってきて様々なことをする。そしてやがて、何やら長い時間かかって文字を書き、それが高々と揚がっていく。と、そこに大書されていたのは「健常者文明を否定する/強烈な自己主張を行なう」「CP者たるを自覚する/愛と正義を否定する」という文字であった。背筋がスゥーとした。久しぶりに覚えた感動だった。

 パンフレットに、これはかつて、実際にあったコミュニティの話だとあったし、金満里さんもカーテンコールで「初めてストーリーのある芝居を創ってみました」と言っていたし、どうやらこの作品は、人々がそれぞれ山へ集ってきて、そこで共同生活をし、やがてそれが女性を奪い合う男性たちの争いによって崩壊し、ついに先の強烈な自己主張もハラリ、ハラリと地に墜ちていって、跡には何にも残らなかった、という芝居であったらしい。

 「らしい」と言ったのは、何をしているかよくわからないシーンも正直言ってあったからである。が、筋がわかるわからないは、演劇にとってさしたる問題ではない。七人の俳優のそれぞれの体の個性を生かした、変化ある各シーンで、狼煙をあげるようにスローガンを掲げる今言った場を頂点にして一つの有機的な起承転結を舞台に構成していこうとする、その姿勢が快かった。そのうちサインちょうだいと楽屋にファンが押し寄せるかも知れない、俳優の美しい瞬間もあった。何だかよくわからない不思議な箱がスウーッと舞台に出てきて、やがてスウーッと去っていったりするのも、あれは何だろ?と想像力を生き生きさせてくれて良かった。

 芝居をみるものは必ずしも創り手の意図に沿ってだけ見ていくとは限らない。筋以外にもあれを見、これを感じ、期待を持たせるシーンはもっと見たいと思い、体の動きが繰り返しになったり、ただ入・退場待ちになったりするところは早く終われと願うものである。全体を、不要なところは切り詰めて半分か、せいぜい3分の2ぐらいにして、アジアの、同じように体のハンディキャップを表現の武器に逆転しようとしている劇団たちと、さあどちらの舞台が面白いか、創造競争ができないものかなあと、思わず夢見てしまった。まだ全体に、体を動かそう動かそうとする意識が勝っているが、たとえば二幕の第二シーン、五人の俳優の行列のような、動こうとして動けないシーンなども、もっともっと考えられていいのではないかとも思った。初めて態変にタイニイ アリスへ来てもらった「色は臭へど」のときの、「暗闇のなかの官能」と評された息を呑むような素晴らしい食事のシーンが思い出される。最近では劇団ベターポーズの、男女の指1本でする不能なセックスシーンも面白かった。

 体というものは、それが所謂健常者のものであれ身障者のものであれ、所詮素材にすぎない、と私は思っている。どんな体だって、あるいはその動きだって、それだけ見るというのであれば3分がせいぜい、5分もすれば飽きてしまう。飽きないのは、大野一雄や山海塾の舞踏がいい例だと思うが、順列組み合わせといっていいほど同じことは決して繰り返さないその動きと、華である。それが一つの構造を持ち、その上の願いとしては状況との決然とした対峙、緊張関係があれば申し分ない同時代演劇となる。今度の「マハラバ伝説」には確実にその萌芽があった。もうあと一歩と思った。

 私の信頼する芝居見の一人に私の夢を話したら、ハンディキャップの人たちの芝居はできれば見たくない、と言う。それをプロデュースするのは福祉の仕事みたいだというのだ。私の想像するに、ハンディキャップにもかかわらずけなげだなどと芝居を見ながら思いはしないか、自分の心の動きが嫌だというのであろう。ハンディキャップの人たちの芝居だから観にいくというのでなく、他の芝居より魅力的だから、見逃せない芝居だから行くというようにならなければならない。その芝居に他の芝居にはない価値の転倒、もう一つの美がなければならない。「マハラバ伝説」の真似ながら「ヒューマニズムなんか否定する」と大きな声で言える日はもうすぐだ--伊丹アイホールの舞台を見ながら、私はそう思った。                     

情報誌イマージュVOL.24 , 2002

 


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新しい身体の世界 Von Petra Bail


『The Legend of Maha-Laba Village』−身体障害者による舞踊 in 『Theater derWelt』

 シュトゥットゥガルト − 役者たちは舞台の上を転がり、這い回り、体を曲がりくねらせて踊る。7人いる役者のうち3人は立って歩くことができないが、床の上で繰り広げられるその身体の動きは今までに見たことの無いような独自性と異質さを兼ね備えた美しさである。3歳の時に小児麻痺にかかった振付師であり監督である金満里氏は今から22年前に他の身体障害者らとともに大阪で劇団『態変』を立ち上げた。劇団の名前は変身や変形を意味する言葉メタモルフォーゼに由来している。 この『態変』による公演は明日まで見ることが可能である。

 『マハラバ伝説』での身体表現は身体障害者が持つ身体の動き、そして彼らが持つ自分特有の表現方法を全く新しい身体表現の世界に組み入れて見せる事がテーマである。監督である金満里氏は障害に対し否定的な価値観を植えつけてきた従来の慣習に対し厳格な姿勢を持っている。『態変』のパフォーマンスにはアクロバティックなジャンプ等というものはない、逆にそれは技巧を凝らした演出の場面を創り出すという基準から反れた身体や手足によるものである。障害のため奇形した手足はしかし、照明で照らされた舞台空間の中で非常に繊細な動きを見せる。重力に逆らうコントロールされない身体の動き、無意識から来る身体の動きの流れ、形が左右対称ではないこと、それらは52歳の監督金氏がテーマとしていることである。彼女は障害者の権利のために社会的、政治的な運動を起こしている第一人者ではない、障害を芸術的要素として捉え、今までにはなかった芸術世界を切り開いている第一人者なのである。

 日頃、車いすや介護に頼っている役者たちも舞台の上では完全に独立しているように見える、そして自らが生み出した美しい身体言語を政治的、文化的規律の枠を超えて築き上げていくのである。

 

 自我を意識した表現

 信じられないほどの力とエネルギーで金満里氏は舞台の上を渦巻き状に転がっていく、そうすることで上半身と下半身そして動かす事ができない脚を一緒に動かす事ができるのである。人生の中で心に深く刻みつけられたイメージが自らの自覚、自信に基づいて生み出される。そしてそれは誰の物とも違う自分自身だけのものなのである。こうした全く別々で多様な実現性を秘めて7人の身体表現の役者たちは言葉を使うことなく、健常者文明によって抹殺されて逃げ出してきた障害者たちが創り上げる共同体の物語を演じるのである。  

 『マハラバ伝説』は1960年代に脳性麻痺者たちが世間から切り離されて暮らしていた実際に存在した共同体をもとにしている。監督金満里氏はそこから3つのシーンに分けて振り付けを作り出した。第1部「命からがら逃げてきた」、第2部「回想、ゲットーから死への行進」、第3部「土着と浮遊性」はこの詩情豊かで奇妙な健常者文明に対抗する天地創造の物語の構成場面である。しかし一方で、物語の中ではコミューンの人間たちが健常者文明の産物である赤いブラジャーにミ二スカートを身につけようとするシーンや、巨大なナイフやフォークを使おうと試みるシーンがちょこっと含まれている。また、奇形した胎児をたくさん詰め込んだ恐ろしいトロッコが登場するシーン、それは価値ある命の破壊を想起させる。そして最後のシーンでは強い風が文明のシンボルであった書を吹き飛ばしてしまう。

 2005年7月2日  Cannstatter Zeitung紙 


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「規範の枠組みを超えて」 Claudia Gass


 女性の上半身だけが、こげ茶のタフタの布の波の中から突出ている。彼女の力のない足は床の上で困惑げに痛々しく横たえられている。しかし、顔は身振りやジェスチャーは生き生きとした表現力に満ちている。両手で彼女は足をつかみ、手足の肩の周りで蛇女のように曲げている。このパフォーマンス集団「劇団態変」の創設者の金満里は、重度身体障害者である。また、彼女とともにTheaterhausの舞台で「マハラバ伝説」をやっている他の役者たち六人も同様である。

 この日本人たちはアウトサイダーの立場からあるグループのことを物語る。この集団は辺鄙な一角に、自分たち自身の人間的で受容的な共同体を作り上げるのである。彼らは空っぽの舞台を囲い込んでいる黒い幕の後ろから転がり出てくる。幾人かの役者、例えば金満里は、座ったままでないと動くことができないし、他の役者たちは小さくなって再び横になっていたりする。黒子と呼ばれる黒い布をかぶったアシスタントはハンディのある役者たちを日常生活においてもずっと世話をしているが、彼らがこの踊り手たちを中に運びいれ、目立たないようにこまごました小道具を運んでくる。

 

 だが、私たちは彼らの能力について話したいと思っているので、この演技者たちができないことについては語るつもりはない。どの踊り手も自分の個人的なハンディキャップを特別なものにし、ある特殊なダンススタイルの名人芸的な動きへと高めていた。小泉ゆうすけは自分の腕の切断された付け根を、絵を描 くために使うことはできないが、筆を足の指の間にはさんでを紙の上に書をする。轟く機械音がゲットーと死を思い出させる息苦しいシーンでは演技者たちは 巧みに、そして表現力豊かに、包帯の束縛から免れる。うっとりさせるようなデュオが男と女の恋物語を見せる。愛情のこもった抱擁をしながら二人は舞台に転がり、男は踊りながら女に愛撫をする。互いに近づく手と手が、優しく、注意深く、 触れることなく、距離を越えていく。しかし、金満里によってドラマチックに組み立 てられたパフォーマンスは、また悲しみや暴力、タブーをも描かずにはいない。身障者にとってきわめて扱いにくいテーマである家族や子どもを作りたいという願いも鳴り響いている。変形した人形を満載したトロッコは、安楽死を、すなわち、価値がないとされた生を抹消することを、暗示している。金満里は自分で描いた布の詰め物か ら布製の鶏をほどき、そこから頭をかじり取る。いいや、これはソフトに仕上げられた、差別を否定する身障者演劇などではないのだ。

 

 役者たちの障害がこのダンス劇を見ているときには何の役割も果たしていないなどと言えば、誠実さに欠けることになろう。踊り手たちが自分の限界と他とは違う点をオープンに見せるやり方は、挑発的である。ことに、規範化された美の理想によって完全に様式化された身体をありがたがる社会ではなおさらそうであることだろう。しかし、これに関わりあうことになれば、舞台の上の出来事は本物の美学と詩を披露してくれることだろう。役者たちがいかなるカテゴリーにも規範にも適しない自分たちの芸術を見せるときの自明性や信憑性、そしてなにより喜びが、彼らの障害を、確かに忘れさせることはないにしても、それでも重要ではないよ うに見せてくれる。なぜなら、その表現は普遍的な人間性を指し示すものだからである。仏教の曼荼羅によって象徴されるマハラバ村は物語の最後では没落する、争いとねたみがこの理想的な共同体を内部から破壊する。態変の役者たちはしかしながら、おそらく到達できない理想郷は必要とはしていないだろう。彼らは自分たちの夢を自分たちの生活の中にもたらしたのである。芸術の力を借りて、彼らは自分たちの肉体 が課した限界を克服しているのである。

 

2005.7.2 Stuttgart Zeitung紙 


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「マハラバ伝説」- 挑発する愛の営み Brigitte Jahningen


 心臓の鼓動、ヨーロッパ的な音楽の断片、一人の女性の歌の響き。舞台上の人間という生き物たち:転げ回る肉体、ためらいがちなゆっくりした動作、ぴくぴくと動く顔、自然が示す唯一のシンコペーション。断片の中から全体が現れるまでには、観客は見ることを学ばなければならない。それは挑発なのか、それとも、愛の営みなのか?

        ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 日本から来た劇団態変のとても洗練された光と影のコンセプトと響きのいい音のコラージュを展開したダンスシアターパフォーマンス、「マハラバ伝説」は、「世界の演劇」のディスカッションに対して、 おそらくはとてつもない貢献となっている。「マハラバ伝説」はある土地のことを語っている。そこでは、追いやられた者たち(ここで言っておかなくてはならないが、これは肉体的に重度の障害を負った者たちの劇なのである)が、自分たちのやり方で共同体を作るのである。その物語は(振付と演出:金満里)村の曼荼羅のあるテント神殿から始まる。言葉は使わず、手と足、激しい上半身の動きによって、語られる。水滴の音に合わせて、種撒き、植樹、場所取りによって占有ということが起こる。美しい世界が讚えられる。

 いわゆるノーマルな人たちから遠く隔たった所にある人間的な共同体にとって、奇妙な踊りと、このエネルギッシュにグロテスクに肉体を強調する仮装より、適しているものがあるだろうか。祭りは終わり、日常が戻る。

 法螺の鳴る音で手と足を使ったカリグラフィーが白い地面の上に出来上がり、おそらくは共同生活のルーティーン化された仕事なのだろう、それがみんなに見えるようにテント神殿に固定される。しかしながら、人間というものは規則を破るものだ。こうして、一羽の鶏が大量殺戮のシンボルとして血の色をしたヴェールのダンスの中で頭をなくすと(金満里のソロで)、今度はダンサーたちが舞台の上で霧の中、転げまわり、殺戮装置の雑音の方へとなだれ込んでいく。

 再びこの転げまわる身体、ソロ或いは群舞によって、横揺れと振動、意図的な動きと意図的でないように見える動き、あっち行ったり、こっちに行ったりする、あるいは、仰向けになって一人では起き上がれない昆虫のように、まったく寄る辺ない状態の始原的表現となっている。

 しかしながら、メタモルフォーゼ(態変とは、翻訳するとメタモルフォーゼ(変身)の意味である。)は可能である。絶望から勇気が育ち、生が育つ。束縛はダンサーたちにとっては新しい自由と愛を育む要素となる。優しい指の戯れがあり、肌と肌がこすれると、子どもが生れる。

 しかし、人間の歴史はまたその過失を繰り返す歴史でもある。デフォルメされた子どもたちは殺され、車によって運びさられる。氷の嵐。舞台の上の砂漠。観客の目に涙があふれる。それと同時に、勇気があり挑発的なこの芸術家たちの愛の営みに対して歓声が起きる。

2005.7.02 Stuttgart Nachrichten紙 


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