ニライカナイを観た
中山千夏
詩は私だけの思考と言葉から生まれる。それが思想となるためには他者の思考と言葉の介助が必要だ。
国家というものが、少女のころからキライだった。なんとなく。なんとなく、だからこれは詩心というものだ。長じるに従って、どんどん大キライになった。なんとなく。あまりにキライなので、他者の思考と言葉を援用して考えてみたら、なぜキライなのかよくわかった。詩心が思想になった。最近のことだ。
私が国家をキライなのは、国家というものは多少とも(現代では多分に)全体主義だからであった。私は全体主義がキライだったのだ。全体主義は私だけの思考と言葉を圧殺しにかかるから。人間個々のかけがいのない個性を統計の数字にしてしまうから。
はたまたスポーツ競技がキライだった。なんとなく。自分がするのは好きなのだが、サッカーチームに夢中になりオリンピックに夢中になるひとびとに混じれない。なんとなく。あまりに多勢に無勢なので、自分を信じられず、興味を持つ努力をしてもみたのだけれど、ダメだった。
最近わかった。スポーツ競技は、特に国際競技、わけても近代オリンピックは開闢以来、カネと権力を追求してやまない国家の全体主義が、国民操作のために牛耳るイベントだから。やっぱり私は全体主義がキライなのだ。
そもそもスポーツ競技自体が全体主義だ。人間それぞれ個別であるはずの身体の動きの目的をもっぱら他との競争勝利に一律化してしまう。そして勝つために、人間個々の、私だけの身体の動きを一律に縛り、その勝負の判定も数字で計測できる「科学的」判断に一律化してしまう。つまるところ、スポーツ競技は、全体主義による人間の身体の征服なのだ。
たぶん、クラシックバレーやクラシック音楽がキライなのも、それに似た理由、それらが全体主義の下僕であるからだろうと思っている。
勇気を出して表明するが、だから、パラリンピックもキライ。無視されてきた障碍者に光が当たる、ということでは、いいかな、とも思うのだが、せっかく個性的に動ける身体を持ちながら、なんで、健常者に紛れるような動きを一律に追求せんとならんのか。それを企業や国家の全体主義に利用されてクヤシくないんか。 全体主義は障碍者を迫害してきたものの筆頭だというのに。私はクヤシい。
劇団態変には去年3月の東京公演「ルンタ(風の馬)〜いい風よ吹け〜」で出会った。たちまち気に入った。今回の大阪公演「ニライカナイ ー生命の分水嶺」は二回目の遭遇だ。前にも増して気に入った。なんとなく、だったが、考えてみてわかった。
態変は、全体主義の対極にあって、全体主義にまこう噛み付いている。
だから私を惹きつけたのだ。
最初から感じたことだけれど、これほど個性の横溢するステージには、めったに出会えない。障碍は個性である、ということの理屈を百万遍聞くよりも、態変のパフォーマンスを一回見れば、難なく理解できる。まったくのところ、障碍は個性だ、と。
演者たちは、科学的な計測を寄せ付けない動きで自身を表現する。表現のために積まれた身体訓練は、それぞれの個性に即したものに違いなく、ひとつとして一律化できる訓練はあるまい。
そうして生まれた表現が眼前にある。金滿里のオロチのような匍匐の迫力。手先の物思い。小泉ゆうすけのウイットに満ちた軽さ。その立ち姿と生命溢れる転倒に見る向井望の凛とした精神。下村雅哉の表情に漂う深い問いかけ。松尾大嗣のおおらかな苦しみ。小林佳代子の爪先が探る未来。それらが、「ニライカナイ」では、「ルンタ」にも増しておどろに美しい音楽や装置と響きあう空間は、客席にある者にも、私だけの思考と言葉をもたらさずにはいない。それは、ニライカナイを希求する思いにおいて、ステージ上の人間たちとぴったり呼吸が一致する。あっという間に夢幻は終わる。
個性を表現し個性を刺激すること。それこそが芸術なのだ、と感じながら、私は座席から腰を上げ、明らかに老いて覚束なくなり始めた二本の足に体を預けたのであった。
(了)
なかやま ちなつ
1948年生まれ。8歳で舞台デビュー。「名子役」時代を経て、俳優、司会者、歌手、70年からはライターとしても活躍。70年代女性解放運動をきっかけに社会活動を始め、80年代には参議院議員も。近著に『幸子さんと私』(創出版)『蝶々にエノケン』『芸能人の帽子』(講談社)など。自称「在日伊豆半島人」。居住地の海をホームグラウンドに、約20年1000本経験を持つスクーバダイバーでもある。
「異文化の交差点・イマージュ」VOL.68 , 2017夏
分水嶺に立つ
石川みき
八九年 「銀河叛乱」から九四年「山が動く」まで、学生介護として五年間、金さん宅に出入りしていた。修士論文が書けず、学生カードローンに手を出して、二重に行き詰った私は、実家の三重に逃亡する。以後、金さんからの逃亡は、二十三年に及んだ。
「ニライカナイ」で私は金さんと再会する。それは逃亡に終止符を打ち、出会い直す必要に迫られた再会だった。
それ故当劇評では、並行して自身について語ることをお許しいただきたい。
いわゆるよくデキた子供。有名私立一貫校に進学し、親元を離れ自活。どこから見ても自立した優等生。
実家の三重で開業した学習塾は大盛況。関西に戻り、大手予備校に就職後もカリスマ校舎長と評された。大手人材会社に転身後は、細身のスーツに身を固めるキャリアウーマン。二度の離婚も武勇伝。
そして、
ニライカナイ初日。
暗転に突如炸裂する異音
全身を掻きむしられるような異様な騒音。音に掻きむしられながら、徐々に身体が硬化して無機質な鎧になる。鎧を掻きむしられる苦痛に目を閉じると、掻きむしっているのは、実は自分自身だと気づく。自分で全身を掻きむしる感覚。
アトピー持ちだった幼少期、熱帯夜に目覚めると首回りが血だらけ、掻きむしった爪を洗い、伸ばした髪で隠して背負ったランドセル。アル中の父に一升瓶を投げつけた大晦日。授業を聞かない生徒を外に突き飛ばした冬の闇。執拗に部下を罵倒し続け、退職に追い込んだ予備校午前一時。
優等生の鎧で隠したもうひとりの自分が、あるときは自分を、またあるときは他者を掻きむしり、傷つけ続けた記憶、その記憶が、延々と続く異様な音とともに蘇る。
都会の小児病棟
高邁な鶏と化した病棟職員が、ベッドを巡回する。障碍児への強烈な侮蔑の先、にいるはずのないアボタカの眼が浮かぶ。金さんの目前で施設職員に放置され、ついには床ずれに蛆がわいたアボタカというその女性の眼。
一度目の夫の度重なる浮気に憤怒して激昂、夫の眼に「憐」の文字を見た瞬間、溜めて浴びせた唾。鶏と自分、夫とアボタカの眼が、どうしようもなく重なる苦痛。
自分が追い続けてきたものは何か。
高度経済成長の申し子として昭和と平成の世に生産性高く突出すること、そうやって優生の思想に満ちた社会に手本を示し、価値あるものとして評価されること。それは同時に、情緒の哀しみ、身体の不快、思考の不安、それらを生産性の阻害要因とみなして蔑み、蓋することを意味する。 虚栄という名の鎧の下で内面が悲鳴を上げても、ひたすら鎧を磨き続け、その結果得たものが、社会的評価ではなかったか。
地に蟻が這う
ぶざまにのろく、ガザゴソとただ地を這うだけの蟻。アボタカの足から生まれたというその蟻は、自分がこれまで追い詰め、唾を浴びせ、ひねりつぶしてきた数々の命そのもの。アボタカは何度もその足からこの蟻を産み落として生きたにちがいない。やまゆり園の一九人、かつて見た閉鎖病棟に浮遊する精神障碍者も、無数の蟻を産み落として生きたはず。役に立たない蟻、のろまな蟻、取るに足らない蟻。産まれるたび、嫌悪し、見下し、侮蔑して、ひねりつぶしてきた自分。いやちがう、実は真の対象は蟻ではなく、自分自身だったのではなかったか。蟻に唾吐く行為は、自分の内なる非生産性への呪いだったのではなかったか。
黒い表皮の下から肉体が現れる。と同時に眼光が、空を切り、空を掴み、空を貫く。いま、ここに肉体がある、その事実があるだけの舞台。にもかかわらずその眼光は、舞台から客席、さらにその先へ、無限の宇宙へと命を放出する。蟻は蟻として、内なる命をこれほどまでに湛えていた! その蟻を産み落とし続ける命! その命に唾を吐き続けた自分!
みきはやり手やね。
介護初日、金さんから言われた言葉。 二十三年間、耳から離れなかったのは、「やり手」の中に一体何を育てているのかという折節の自問と重なったから。二度の解雇を見返すためフリーを選択したものの、全く前に進めない。そんな自分と向き合う中で、自分が必死に育ててきたものは、実はただの鎧だったと気づいたとき、どうしても金滿里という人と出会い直さなければならないと衝動した。自他を掻きむしり続けた自分に気づき、受け容れ、赦し、そして手放す。虚構の鎧を脱ぐ。掻きむしられ疲弊したぶざまな自分、内面に委縮したもうひとりの自分を癒し、育てるために出会い直す。
なぜ金さんと、なのか。金さんの介護では、鎧は全く役に立たず、内面の価値を問われ続けた五年だったから。
ニライカナイ目前の今年初頭、期せずして湧いたこの衝動は、もう一つの世界への分水嶺。
もう一つの世界
ジャングルの森で、役者がアボタカの足と戯れる。役者の動きに合わせ、アボタカの足が笑う。慌ててジャングルの森も笑う。すべてがひとつに戯れるその空間に、「評価」は存在しない。
ひとりたたずむアボタカ。それでもアボタカは離れない。じっと見つめ、関わり、すべてを受け容れ、引き受ける。膝根の棺を築き、命の終焉をその次へと引き継ぐ。命に溢れた内なる良きものを、ひねりつぶされ、打ちひしがれ続けたものが極限状況で選択する真の受容、もう一つの世界。
その世界に分け入ったものしか許されない跳躍。どこまでもどこまでも、跳躍の可能性を秘めた存在として「すべてはひとつ」、その声を舞台の身体から受け取ったとき、情緒と身体、思考のすべてが自我から解放され、すべてとつながる感覚。その感覚を連れて、ニライカナイは圧巻を迎える。すべてを良きものに変える光と音の演出、正邪こもごも、海の彼方から訪れる神々と共にある役者の身体。たとえいま、ここだけであっても、自我から解放されたからこそ体感しうる、赦しの世界。受容から解放、そして赦しへ。
虚栄に満ちた鎧を脱ぎ、自分の内なる声に真正直に生きる。すべてはひとつ、すべての内なる声とつながり、すべてを受け容れて生きる。
もう一つの世界を生きるのは、これから。
いしかわみき
一九六八年生まれ。京都市在住。 教育・人材業界を経て、現在はフリーのキャリアコンサルタント。学生時代の
五年間、自立障碍者数名の生活介護を経験。
「異文化の交差点・イマージュ」VOL.68 , 2017夏