金満里ソロ公演

ウリ・オモニ


■ウリ・オモニ(1998年 情報誌IMAJU vol.13より)  ■初演に寄せて  ■大野一雄先生の稽古  閉じる

ウリ・オモニ

 私の母親である、金紅珠(キム・ホンヂュ)が三月十八日に他界した。
 『生きることのはじまり』でも母のことにはふれているが、私にとって、金紅珠は、親や母という以前に韓国古典芸能の大家としての「金紅珠」であった。もしも、日本に移住するという流転の運命がなく韓国で芸能活動を送っていれば当然人間国宝だったろうという人であった。金紅珠の後輩として私が顔を知っている人でも、カヤグム・ペンチャン(朝鮮の琴を弾きながら、口承伝承式の物語を歌でやる形式のもの)で世界で名を知られた朴貴姫(パク・キヒ)さん…この人は、韓国通の日本人の間でも有名であった韓式旅館『雲堂(ウンダン)旅館』のオーナーでもあった…、パン・ソリ(昔から伝わる物語を、語りを交えて朗々と一人で歌い上げるもの)の第一人者、金素姫(キム・ソヒ)さんなどがいて、両人とも人間国宝であったが、母よりも先に他界されている。金素姫さんは、その死を日本の新聞が報じたほど知られた人であった。
 母は、知る人ぞ知る韓国古典芸能の大家の中でも最長老として長生きしたのであったが、レコード吹き込みも強固に拒み、後継の弟子も取るには取ったが折り合わず途中で断念するなど、昔ながらの芸人気質のあまり、晩年は世に名が出ることもなくひっそりと暮らしていた。

 金紅珠の86年間の人生は、気骨そのものだったと言える。
 また同時に、徹頭徹尾、自分だけのためにだけ生きた人であった。
 私が家を出て何年か後に、同居していた長兄夫婦を自分の意志で追い出し、以後、ずっと一人暮らしだった。日本風の老いては子に従うなどとは全く無縁の人であった。自分の生活スタイルや信念を曲げるなどは死んでも出来ない人であったといえる。それくらいなら一人の生活を選ぶことを良しとして、自ら子を退けてきたのではないかとさえ思える。他人でも子でも屈伏は有り得ないことであり、それが金紅珠としての人生観として貫かれていたのだ。自分に正直に生きることは、例えそれが血を分けた子に対して非情なことだと解っていても思う通りにしかできないということであった。
 母は長年にわたり、キリスト系の新興宗教の熱心な信者であった。その信心のきっかけも、前夫が亡くなりその亡霊に取り付かれる思いに駆られ、助けを求め駆け込んだ所であったらしい。死というものを極度に嫌悪し又恐れていた。人の葬式には絶対に行かない。朝鮮の伝統の先祖を祭る法事も、自分の子供達がするのも嫌がっていたという。長兄がもう病も治らず死を待つだけで入院生活となった時にも、死に近づいている者の所には例え息子でも見舞いには行きたがらなかった。臨終間際でようやく他の子供達に促されて駆けつけたぐらいである。

 私は母と同じ大阪に住んでいても、年に一、二回しか親の家を訪ねないといった不義理を重ねていたが、母の方からも電話さえ滅多にこないといった至極あっさりした付き合いであった。年老いた親と、面倒を見るより見られる立場である障害者の子との双方としては、その距離が大切だったのだ。それでも母と私の間には、互いに精一杯生きているという安心感が何よりの共通のものとして流れていて、それが生きる支えとして大切なことだっだ。しかし去年の八月、日本語のおぼつかない韓国から出稼ぎのアジュモニ(おばさん)のお手伝いさんに連れられ、這うようにして、エジンバラ公演への出立を前にした私に一目会おうと、訪ねてきた。今から思えば、その時に母が、ここに来れるのもこれが最後になるかもと言っていたことを思い出す。死期が近づいていたことを本人はどこかで察知していたのだろうか。

 母の最後は、本当に突然に誰も枕許に呼ばず大騒ぎもせず、誰にも見取られずにひっそりと息を引き取っていた。
 私が最後に母と話をしたのはその二日前の電話であった。姉から連絡が入り、オモニ(おかあさん)の記憶が無くなっていて、自分を他の姉と間違えて、思い出せないという事態になっている、早い内にオモニの所に行くように、と言われていた。その電話が入ったのが三月十四日である。しかし丁度折りしも私は、三月二十日に枚方での態変の公演を控えていた。電話で姉にもそのことを伝え、電話だけでもと二度電話を入れた。
 二回とも母は、私の事ははっきり解っていて、いつものように私の子供の事まで気遣い、意識はしっかりとしていた。
 その最後に話した十六日の電話で私が、二十日を過ぎたら必ず顔を見せに行くから待っているようにというと、母はいつになく穏やかな優しい口調で「ウリ(私の)、まりちゃんの顔をそら見たいわ」と、長い間忘れていた「まりちゃん」という独特の言い回しの懐かしい響きが聞こえた。それがいやに胸にこたえた。瞬間私は〈この声をきくのは久しぶりだ。多分一生忘れないだろう。〉とはっきりと思のを覚えている。しかし、それがまさか最後になるとは思ってもいなかったが、それが私と母の最後であった。

 お手伝いさんと共に生活していて一人ではなかった。しかし、あの人の事だからきっと死を迎える時は、子供達みんなを呼び寄せるのだろうと思っていたのだが、最後は本当に意外なほどあっけない母の死であった。
 あの人らしい最後だったのかも知れないと思う。何だかんだといっても徹頭徹尾、自立した生き方を貫いたのだから。
 この母の死に対して、私は非常に冷静であった。先にもふれた、枚方での公演の前々日に当たる十八日に死去し、通夜の十九日は仕込み、二十日の公演当日は昼からのリハーサルをメンバーに一任して葬儀に出席。葬儀に出た足でそのまま、最終リハに駆けつけ本番を迎え無事公演を終了した。
 芝居屋の親不孝とは聞いていたが、まさか自分の身にこういう形で降り懸かるとは思ってもみなかった。無我夢中でとにかく悲しみに浸っている訳にはいかないという気の張りだけで乗り切った感じだった。かえって、芝居のない普通の時に死なれていたなら落ち込みも相当なものだったろう。
 その三日間、無我夢中で予定をこなしながら、母は、もっと私に芝居をやれといっている気がしてならなかった。そしてそのことが、母にとっての一番の孝行なのだということがはっきりと解った。それまでの目の前の雲が晴れるように、一点の曇りもなく、舞台芸術の道をまっすぐに進んで行くしかないという思いで向かっていた。かえって爽快ささえ母に教えられた思いであった。死なれて、生存中よりもその人の存在がかえって大きくなる、そういう人であった。
 その事に思いが至ればまた、新たな課題を突きつけられた思いでもある。形こそ違え舞台を追求している者は、姉兄達の中でも、結局、私一人である。母の古典とは違う、私の創ってきたものは言わば前衛中の前衛で、対極のものといえる。しかし母は生前、末娘が障害者の劇団を作り自分と同じようなことをしている、と喜んで人に話したりしたそうである。また、公演を一度は観に来た事もあり、公演の度に気に止めていてくれた。
 最初の海外公演でケニアに出かける時は、私に予告なしで空港まで見送りに来て驚かせたものだった。また、最近など、〈今度態変のエジンバラ公演がある場合は、チャング(朝鮮のつつみ型をした大きな太鼓)を叩きについて行く〉などと言い出し私を慌てさせたりと、驚くほどの芸に対しての母の執着と、私のやろうとしている舞台表現に対して声援と協力を惜しまない姿勢であった。
 今となっては、私が唯一人、金紅珠の芸への意志を繋ぎとめたということになるのだろう。金紅珠の他界という事態に直面して、新たに思い知る、態変を創り出して来た責任というものを噛み締める思いである。もう一度一からやり直す覚悟で、舞台表現というものを見詰めなおそうと思う。古典からも逃げず、私の身体の中にあるものなら障害者だからなんだかんだと人に言われることを気にせず、真正面から舞台表現者として芸と格闘しなければなるまいと切実に思うのである。
 そして、何十回も演じ続けることができ生涯磨き続けていく、そんな私の作品を一つ持ちたいという思いに至った。
 そのためには、外側からの眼が必要だ。私に演出を付けてくれる人、ということで思いつくのは大野一雄さん、慶人さんしかいない。大野さんの代表作に『わたしのお母さん』というのがあるが、私の『ウリ オモニ(韓国語でわたしのお母さん)』という作品を、大野さんにお願いして創れないだろうかと、今の私の差し掛かっているもの、「向き合うのはこの作品の他にはない」という御相談を僭越ながらもさせてもらった。大野さんと慶人さんは有難いことに、私の演出・指導をお願いしたいという無礼を承知のこの申し出を、正面から受けとめてくださった。
 そこで一大決心、金満里のソロ公演『ウリ・オモニ』を八月のエジンバラ、三年目の参加になるフリンジで行う事を決めた。
 そしてこの作品は、11月20・21・22日大阪の扇町ミュージアム・スクエアで日本初公開しようと思う。一人で立つ本当の意味を、金満里としてのソロ公演『ウリ・オモニ』という作品を引っ提げることで、母の死を引き受けなければならない時がきたという気持ちである。

 そしてイマージュ読者には、次号・次々号で金紅珠にしばらくお付き合い願いたい。第二次世界大戦を挟んで、日本の地で活躍した貴重な金紅珠一座の足跡をまとめたものを掲載したいと、ただいま準備中である。
 母の劇団である金紅珠一座は、国を越え他国に於いて、民族の持つ芸術というものが普遍的に受け入れられたというものである。私にとってこれは〈生き残る為の芸術〉として、もっとも今日的課題だと押さえていることである。私達表現・芸術を実践して行く者にとっての基本的な問いかけとして、先達の貴重な実践の記録を知らせていきたいと考える次第である。


(1998年 情報誌IMAJU vol.13より)


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初演に寄せて

 今回の作品『ウリ・オモニ』は朝鮮語で「私のお母さん」という意味です。3月に他界した私の母、金紅珠(キム・ホンヂュ)に私がソロで捧げるオマージュです。

 金紅珠は幼くして、朝鮮の古典芸能家になるべく育てられ、6才で初舞台を踏み、朝鮮中を巡業して人気を博しました。 1931年(満州事変の年)に日本に移り住むのと同時に、「金紅珠一座」を立ち上げ、それ以降は日本全土をその活動の場とし、朝鮮の古典芸能を演ずる劇団として、終戦後まで活躍していた人です。

 朝鮮の古典芸能は、東洋の中でも、静と動の機微に優れ、その味わいには陰陽の極めを感じさせる一つの大成した形があります。
 私が3才でポリオに罹患し重度の障害者となるまでは、母は自分の後継に私が成ることを信じて疑わなかったようです。それほど、幼い私も踊りが好きだったようです。しかしそういう話しは聞いていても、そんなことは別世界として捉えるしかない、私の「障害」となってからの生活の状況でした。そして何よりも残念に思うのは、私は母の舞台は一度も観たことがないことです。
 しかし一座を解散した後も「金紅珠古典芸術研究所」を持ち、教えていたのは知っていますし、何よりも、日常の暮しから教えられた芸人としての母の姿がありました。
 私は障害者となった後、17才で施設を出、始めて母とゆっくり暮らす日々を3年ほど送りました。その間、母は、障害者にもやれる古典はあると、伽耶琴(カヤグム)やチャング、プクを教えたりと、自分の芸を私に伝授したがっていました。(結果的には「さわり」の部分だけですが、教わりました。)  そして私自身にとっても不思議に思うほど、決して平坦にたどり着いた訳でもないのですが、気が付けば自分も舞台の身体表現を創り出す現場にいたのです。
 今、私は態変というものを創り、世界の中にも類をみない障害者の作・演出家として、身体障害者の身体表現を普遍的身体表現へと、新たな観点での舞台芸術を行っています。

 ここまで私が態変という表現に対して、自信を持ってこだわってこれたのは、何といっても母、金紅珠の古典芸能があったからだと思います。
 前衛という意味は良く解りませんが、敢えていうなら前衛中の前衛として態変はあるようです。つい最近まで私は、態変の表現に、母のことや朝鮮の古典芸能を直接的に出すことなくやってきましたし、むしろ、そういうものに対して対抗心すらあったといえます。
 しかしどこかで、いつか古典とも真正面から向き合うようになりたい、という思いはふつふつとあったことも確かです。つくづくと、母が亡くなる前にこの作品をやるべきだったと思います。

 今回の『ウリ・オモニ』は、舞踏の大野一雄さん慶人さん親子に、私どもでいう作・演出を完全にお任せして、でき上がったものです。  今までの態変とは少し違う、でも、明らかに態変が追求してきた身体表現の上に更に、世界を股にかけ舞踏の神髄を伝え、世界の大野と言わしめてきた、大野一雄の世界観が加わった作品です。大野さんとの幸運な出会いがあり、可能になった作品です。
 大野さんの代表作の一つに、『わたしのお母さん』があります。態変とのコラボレーション『宇宙と遊ぶ』では、その一部分として大野さんが演じてくださった、忘れがたい作品です。今回の私の『ウリ・オモニ』は、同じ意味の朝鮮語をタイトルとさせていただきました。  

 この『ウリ・オモニ』は、私の作品の一貫したテーマ「創造と破壊」の根元的課題だともいえます。
 虚と実・善と悪といったこの世にある有形無形の極の全てが、慈悲と修羅だと思います。その両面を持ち合わせた、愛すべき不可思議な存在として「女」も「母」もあると捉え、そのこと自体の昇華をテーマとした作品にしたいと思っております。この作品にある一人の女の人生に思いを馳せていただくことにより、私に或るいは貴方につづく何かを拾っていきたいという思いであります。

 この作品は一時間前後のものですが、やればやるほどにこの作品の持つ奥の深さを思い知る思いです。そして、何回も演じつづけたいと思う作品です。 どうぞ、11月20〜22日のOMSでの金満里ソロ公演『ウリ・オモニ』へ、皆様お誘い合わせの上、多数のご来場を心よりお待ちしております。(1998.9.18)




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大野一雄舞踏研究所での稽古より

金満里
(情報誌IMAJU vol. 13他より)

■稽古始め

 大野一雄さん、慶人さんには、4月19日に最初の稽古を付けていただいた。
 まず、お住まいに案内されて昼食をよばれた。稽古場(研究所)はお住まいのすぐ裏。お弟子さん達が何やら騒いでいるのは、留守中に身重の猫が稽古場に入り込んで荒らした挙げ句奥に篭城しているという、なんだか、のどかな話しだ。

 いよいよ、昼過ぎから稽古の開始。
 ラフを作っておいてくださいと言われて、思いつくままに書き上げて行ったメモを読んでもらう。

[1]産れるという事/胎児の誕生
 べったりとずぶ濡れに悲しみや苦しみにまみれるように今、羊水から這いだして新しい世に産れ出る。
 新しい世をまぶしく又時には恐れながらも、拒否しながら受け入れて行く。そのエネルギーでずぶ濡れはいつしか乾いている。無邪気に遊びながら、産み落としたものと格闘しそのものを壊して行く。

[2]流浪の河
 玄海灘を越え日本の端に付く。流転流転の旅芸人。
 大河を背負い流れて行く。
 祖国と異国の地、大河の様な海を挟んで引き裂かれる心。産れ出たこの世とまだ産まれこぬ世に引き裂かれる心。

 ・・・・・

 このようなものなのだが、一読するなり慶人さんの血相が変わる。「これは、じっくりと創って行きましょう。よく考えさせてください。」
 いくつか対話をした後、とりあえず、ということで、冒頭の胎児の誕生を創り始める。
 まず、形を創るのが慶人さんの仕事だ。舞台奥、客席に対して正面から出ましょう。一寸先見えない闇に向かってミリ単位で進んでください。身体をはさんで、生と死の方向があるんです。頭が生へ、足が死に向かっている。しかし逆かもしれない。未だ産まれない胎児の命はどこへ向かうのか? 生と死の意識がこの場面の本質なんです。
 そして、私の動きを見ながら、色々と指示が飛ぶ。静止してフォルムを出してみる、激しく手で闇を掻いてみる、躓くごとく身体をよじってみる…
 無我夢中の格闘で時間の流れが全く分からない。
 そこへ、大野一雄さんが口を開く。部分ではない。いのち全体が動くのでなければならない。

 こういう調子で、休憩を挟みつつも延々六時間、すっかり暗くなるまで稽古が続いたのである。

◆猫篭城事件の顛末

 稽古が佳境に入って来た時に、ふいに、大野一雄さんから「宇宙の子宮」というビジョンが提起された。花になって種が宇宙に蒔かれ、宇宙そのものが子宮であり、花であり…、そういうことを語りながら、大野さん自身がふっと花になってしまって座ったまま踊り始めたのである。
 私も、〈子宮、子宮…〉と念じながら、夢中で動きを創っていく。だんだんと、稽古場が子宮の中であるかのような感覚になってくる。〈子宮、子宮…〉という念が蔓延していったのかもしれない。この稽古が一区切りついて放心状態の時に、慶人さんが急に「あの猫、気になりますね」といい出した。稽古場の奥に篭城しているという身重の猫のことだ。「大きなお腹を抱えて動きが取れなくなっているんだろう。助け出してやらないと…。」
 一同といっても、大野さんと私はただぼうぜん、慶人さんを筆頭にお弟子さん二人と私の介護者の四人で大騒ぎの猫救出大作戦が始った。うず高く積まれた資料や舞台道具をそっと動かし、通路を作り、ちょっちょっちょ怖くないよ怖くないよ、と呼びかけると、真っ白な猫が二匹、勢い良く飛び出してきた。一匹はそのまま慶人さんの頭を飛び越えて外へ出て行ったが、お腹の大きな方が、稽古場の中の反対側の荷物の山に入り込んでしまい、もう一度、そろそろと荷物の移動と呼び掛けをやってやると、やっと猫は裏口から出て行った。緊張と集中と自分自身の奥底の凝視とでがんがんだった半日の中で、思い出す度に笑えてしまうエピソードである。

■最終稽古

6/17・18とまたまた保土ヶ谷の大野舞踏研究所へ稽古に行ってきました。

やはり、大野さんのところでは、作品のその時の一番必要なものを引き出すための魂の有り様が問題となってきます。
だから音響をやってくれる慶人先生曰く、その日のお客さんの感じ方と演じ手の感じ方が上手く舞台の空間として入っていくような音響と照明、ということで毎日が同じというものはない東京公演となりそうで、私としてはそこが楽しみでやりがいがあるというものです。

もう既に、何ヶ所か手直しが入りました。

暗夜の胎児は、金さんの演技だけで極力観せたいと、溶鉱炉の音は殆んど始めだけで、終わりの方に水の音が出てきて、

慶人先生曰く、生まれる側と生む側の両方のものは金さんが体得しているものなので、なるたけ音も本質的なものだけにしましょう。

母と子の絆のカヤグム・サンジョウ-
生の演奏のパク・スナさん合流。
これがぐっとこの作品を今回地に足の着いたものにすることが出来てきた要因で有難いです。

ポルカの2度目のガラガラをほったところで、楽座にスタンバイ。

和紙の被っての出は、和紙の中での人か何か解らない怪しい動きをもっと出す。

・・・・・

などなどと、実に更に演じ手としての課題が膨らんで来て、ある意味では非常に作品としての綿密な乗りが掴めてきてやりがいのある今回の「ウリオモニ」と成りつつあります。本当に稽古に行った甲斐がありました。

大野一雄先生も、私の稽古を観て非常に感激して下さっていたようで良い稽古が出来ました。

18日、2日間にわたる稽古を終え、夕食をおよばれしたときに、大野先生が突如として、

鮭は我が身を子に食べさせ次の命に捧げていく
そのような行為がこれからの時代の方向性として、
必要になってくるのじゃないかと思っている。

ということをおっしゃいました。
良く聞く話ではあるのですが、何だか私の今回の公演に向けての一番の教訓としてあるものを感じるところがあり、本当にびっくりしましたね。

大野一雄は謙虚そうに見えながら、実は舞台の上ではこれほど貪欲な人はいないだろうと評していた人がいて、それはそうだろうと、私も思う。
しかしなにはともあれ、あれだけ舞台上で与え尽くす愛を演じれる人はやはりいないと思うし、私にとって大野さんを師と言わしめるのは、やはりその部分を知りたいと思うからです。

そして大野一雄にとって「わたしのお母さん」の母像は正しく、その演じるエッセンスの象徴である。

私は私の「ウリ・オモニ」に関して、女の実態として慈悲深い聖母マリアなんかではない善と悪の二面性を持つ、鬼思母神のようなバリ島の魔女ランダのような存在を出したい、というのが、女の私から描いた「わたしのお母さん」であるわけである。

しかし私の中にある、おんな性というものはおんなゆえに余計に与え尽くせないという、ある一点で踏みとどまっているプライドやこけんといったものがやはり演技の中でもあるのを感じるのです。

ある意味では女も男も越えたところでの、与え尽くすもの、それが愛でもかまわなく、それによって人を幸にさせらるのならやはり与える側になりたいと思います。

それをやはり今回は大野さんの演技のエッセンスを貰わなければ、と大野研究所での稽古の最中に思っていただけに、そこを見透かされ肩を押されたような言葉でした。


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