Over the Rainbow ー虹の彼方に

劇評



■「虹の彼方へ」 藤本由香里   ■「残酷な未来へ」 本橋哲也

虹の彼方へ

藤本由香里

 劇団態変の舞台を久しぶりに観た。
 30周年記念公演「Over the Rainbow」。  最初に厳の舞台を観たのは、20年前、大野一雄氏とのセッション「山が動く」。その後、金満里さんの著書『生きることのはじまり』の担当編集者として、折に触れて劇団の舞台を観てきたが、編集者を辞めたこともあって、このところ、なかなか大阪まで行けず、東京のタイニイアリスで行われ金さんのソロ公演しか観れていなかったのだ。ほんとうの意味の「劇団態変」の舞台はもう10年ぶりくらいになる。その間に木村年男さんが逝き、福森慶之介さんが逝き、態変の舞台を観に来ても、もう彼らの姿が観られない…というのはとても寂しい思いがする。
 だが逆に、そうやって役者が入れ替わっても、やはり「劇団態変」は「劇団態変」なんだな、その魂は変わらず受け継がれていくのだな、と強く思えたことが、今回、最大の収穫でもあった。
 正直言うと、今回、観に行く前には、かねてからのファンだった小泉ゆうすけくんは変わらず活躍しているとはいえ、木村さんも福森さんも、そし松葉さとみさんもいない態変のの舞台は、私が知っている態変の舞台とは 変わってしまっているのではないか…という一抹不安を抱いていた。だが、「Over the Rainbow」の幕が開くと、それが完全な杞憂であることがわかった。そこで繰り広げられたのは、私の知っている劇団「態変」の舞台そのものーヒトが演じているというよりは、舞台の上を動いていくヒトが生きるエネルギーそのものの流れが、観ているものすべてを巻き込んでいくような、あの「態変」の舞台そのものだったのである。
 最初に印象に残ったのは、第2場の「海と帽子」の金さんのソロだった。最初に頭をよぎった言葉は「金さん、うまくなった!」(笑)。あとで考えれば失敬な感想なのだが、幾度かのソロ公演は、劇団全体の公演の中でも、金さんのソロの動き、その細かい動きを確実に磨き上げたのだと思う。海辺で帽子が風に乗って飛ぶ……ただそれだけなのだが、強い印象に残り、空間の広がりとその普遍性を強く観客にイメージさせた場面だった。  そして今回、最も強く目を惹きつけたのは、向井望さんの存在だった。「海と帽子」が象徴したものが時間と空間の広がり」だとすれば、彼女が体現しているのは「凝集」。最初に、打ち捨てられた紙袋の中で、がさごそと這い出してその姿を見せて以来、舞台のどこにいても目が吸い寄せられていく。圧倒的な存在感。とくに印象に残ったのは、後半、暗い中、彼女のソロから始まり、一転してみんなで遊ぶ場面になる展開だ。緊張と解放。 子供たちがみんなで遊ぶ 「だるまさんがころんだ」。 おそらく「Over the Rainbow」の中でも屈指の名場面だ。
 そして、楽しそうに遊ぶ子供たちの中でも、上月陽平くんの楽しそうなようすに目が惹きつけられた。彼が体現しているのは陽気さ・明るさ・柔らかさだろうか。そして植木智さん、下村雅哉さん、楠本哲郎さん、山口幸恵さん、そして変わらぬ(おじさんになったけど(笑))小泉ゆうすけくん(なんとなくこう呼んでしまう)、彼らが入り乱れてラスト、一列となり、舞台上の虹の橋を渡って虹の彼方へと、一人一人ゆっくりと行進していく…。
 ここに、つい先日参加した、 東京レインボープライドの野外ステージで、「私は私の人生を愛している!」とシャウトしながら歌われた、夏木マリさんの「虹の彼方へ」の歌が、私の記憶の中で重なっていく。
 劇団態変のこの舞台「Over the Rainbow」が「宇宙」を舞台としていることは、パンフレットを読んで初めて知った。だが、今回の舞台を観ている間中、「今回の舞台は何か、とても広い場所、空間の広がりのある場所に設定されているのだな」という気はしていた。
 劇団結成から30年、「劇団態変」はとても広い場所に出たのだと思う。
 「Over the Rainbow」---- LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)に代表されるセクシュアル・マイノリティも、障害者も、それぞれが虹のしずくとなってその存在が響き合う。実際、本公演最終日のアフタートークのお相手は、トランスジェンダーの倉田めばさんだった。
 不況の中で、また障害者制度の改革の中で、劇団態変の運営はかなり厳しい局面を迎えている。けれど態変のエネルギーの流れがもっともっと多くの人を巻き込み、「虹のかなたへ」と続いていくことができるように、これから先も支援し続けていきたいと思う。

ふじもとゆかり
1959年熊本生まれ。筑摩書房編集者を経て、現在、明治大学国際日本学部教授。専門は漫画文化論 ジェンダーと表象。編集者時代から、マンガ・社会・ジェンダー・セクシュアリティなどについての評論を執筆。金満里『生きることのはじまり』の担当編集者。

「異文化の交差点・イマージュ」VOL.59 , 2014春



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残酷な未来へ

本橋哲也


 金滿里は、雑誌『インパクション』の特集「2020東京オリンピック徹底批判」に寄せたパラリンピックについての文章で、国家の競争原理に組み込まれたスポーツが「健常」と「障害」との絶対的な差異を価値判断する発想に支えられていると分析する。パラリンピックで超絶的な技術を見せる選手たちの演技を賛美する人々は、「決定的に「障害」の部分を極力最小限に留め、健常な部分を最大限鍛え上げ、その絶妙なバランスの上に成り立つ身体性」に熱狂しているのであり、それは結局のところ「「障害」の絶対否定の上でしか成り立っていない」 (1) がゆえに、国家や資本の競争に利用されてしまうのである。そうでない障害の可能性を引き出す方法として、金は次のような原理を提案する。

 障害者自身も障害の部分を極小に健常の部分を肥大させる、身体改造を追い求めるのではなく、障害の部分を最大限引き伸ばす方法で、 逆転の発想で編みだす競技がないものか。いや競い合う発想では自ずと限界を内包するのだから、いっそのこと、優位性を保持する価値判断の中での勝ち負けを決められるのではなく、いかに「できない」かを問題にする価値の方が、優生思想の最たる競技の勝敗とは逆方向のベクトルで、より無限大だとは思わないか。 (2)

 劇団態変の演劇活動における「障害の部分を最大限引き伸ばす…逆転の発想」が、ここに表明されている。なぜなら演劇こそは、究極的に「できない」ことを前提とした表象芸術の形式であるからだ。その「(不) 可能性」は様々なレベルにわたる。まず演劇とは、人間が言葉と身体によって現実の出来事を描写する不完全な営みであること。そもそもあらゆるメディアは現実への架け橋に過ぎないのだから、どれほど精密に出来事を表象してもそれは「現実」ではないという限界を引き受けざるをない。しかしそれにもかかわらず、というかそれゆえに演劇は、人の生死や恋愛や痛みのような日常の出来事を、何度も異なった状況や場所や文脈で表現することにより普遍性を獲得する。また演劇は「亡霊」のような、現実には存在しないが深層心理や幻想に深くかかわる不在の存在と親近性がある。「井筒」や「ハムレット」のような作品が描くように、亡霊は此岸と彼岸をつなぐ間(あわい)に居り、その訪れが開く時空間はありえないことをあらしめる能動のトボスとなるのだ。さらに演劇は、舞台と客席、役者と観客との共同作業として、観客の日常感覚を中吊りにする。現実と表象との関係を逆転できる演劇とは、まさに翻訳体験(トランスレーション)なのである。「障害者」による演劇において「できない」ことを焦点化し「無限大」の価値を実現すること----金滿里と劇団態変が志向してきたのは、そのような思考/試行にほかならないだろう。

  *

 態変が結成三〇周年と第六〇回公演という節目に選んだ作品『Over the Rainbow 虹の彼方に』は、物語を伝えること(意味の伝達)と、空間の現前(意味の消去)という矛盾した契機の重奏によって劇が成りたつことを示唆した稀有な上演である。その意味でこの作品は、解釈の呪縛に囚われ、プライベート化 (商業主義)とポピュリズム (反知性主義)に埋没した多くの(とくに大都市の)日本語圏舞台芸術に深刻な反省を迫る。「できない」 ことに賭けた態変の試みは、現代日本におけるネオリベラルな金融資本主義とグローバルな自民族中心主義に抵抗する射程を獲得しているのである。

 今回の作品でそうした物語と空間とのせめぎ合いを可能にしたのは、役者たちの濃い身体と、それを煽り立てるフリージャズの熱い音との協働、というか闘いだ。冒頭、上演「台本」に従えば「異星から棄てられ孤独な悪ガキたち」が登退場した後に、「海と帽子」と題された場面がある。そこでは「遠い昔の人」 (金滿里)が赤い帽子をかぶり蹲っている。演奏に抗うようにその緊迫した肢体が伸張するが、星の重力がそれを許さない。二つの力の拮抗が、咆哮から一転、静謐へと移った音楽によって一息に解け、彼女が顔を上げた瞬間、帽子が「遠い海へと」 放たれる、遥かな未来への飛翔のように。この「平和」な情景は「異星人」たちが棄てられてくる以前の地球の記憶なのかもしれないが、私たちを打つのはそのような意味への納得であるよりも、フリージャズの(管と弦と打の闘いという制約によって自由な)音響が意味を表出しようとする役者の身体を包み、そのリズムに奮い起された身体が意味を断念することで、隠喩(メタファー)へと解放される契機だ。それは無限の諦念と可能性の方向へと (無) 意味を開放するのである。
 ジャズと身体との協働/狂動は「異星人」たちが他者意識に目覚め、他者への恐怖や拒否と自己保存本能とをぶつけあうところで顕著な効果を発揮する。(肌を新たな色の皮膚に代えたように)原色のレオタードをまとった形象が、群舞として統制された意味を獲得しようとするたびに音楽が介入し、さらに身体は音楽を乗り超えようと他者への関心と無関心、孤独と敵意とのあいだを激しく動揺する。ときに旗によって象徴される民族や国家のような厚い意味も発散されるが、そうした過去や伝統への拘泥はすぐさま現在の「恨」を担った身体によって破砕されていくのだ。
 この公演が、 フリージャズと舞踏という二〇世紀後半の革新的な芸術様式の「伝統」を受け継ぐものであることは疑いを容れない。舞台芸術の強度は、過去の遺産や記憶が現代において喚起される時間的差異の新鮮さによって測られる。現在の表現を支えている伝統はつねにすでに他者のものであるがゆえに、自己の参加を許すのだ。伝統とは他者との接点において一旦他者のものとして断念されながら、同時に自身のものとして再活性化され、不断に革新されることでふたたび 「伝統」となるのである。 (3)
 そうした伝統への諦念による継承を感得させてくれるのが、後半部で「悪ガキ」たちが「運命共同体」を自覚して遊びに興じる場面だ。この部分は物語の流れでは、異星から地球へとやってきた孤独な人びとが互いの餌場を争いあう戦いから、互いの差異を容認して共同性を築く行程の中間に置かれる。最初は各々がボールや釣竿、剣玉などをもって遊ぶが、しだいに道具が交換/交歓されて「だるまさんが転んだ」へと展開していく。遊び道具という自分の過去の痕跡を留めた物体が、他者意識のなかで新たな意味を獲得するのだ。しかし手馴れた遊びが伝統的な集団遊戯/友誼へと発展しても、音楽と照明が夕暮れを示唆すると各自は遊具を再び持ち直して自分の場所へと帰っていく。この場面の哀切な懐旧は、幼児期の記憶とジャズや舞踏への接触体験とが重合した触感に起因するのだろう。定形のない態変のダンスは客観的な吟味よりも、自身の孤独と向き合って未決な過程へと導くような、柔軟な創造性へと私たちを誘う。それは私たち個々人に潜む「伝統」を刺激して刷新するのである。

  *

 態変の公演を見ることは大変な集中力を要求する。初めて態変を見た観客の中にはその体験を事件として受けとめてしまう人がいるかもしれない。しかし役者たちによって、意味が不断に無意味へと還元され、無意味が連環して意味へと分節化されることを体感するうちに、観客はこの体験が無限に開かれたものであることを知る。自分の解釈や判断がいかに様式や慣習に制約されているかに気付き美醜の感覚を揺さぶられるとき、特別な事件はかけがえない出来事へと変質し、観客は未来へと投げ入れられた可能態へと変化するのだ。
 災害ビジネス(ショックドクトリン)、金融資本支配(ネオリベラリズム)、排外主義(ウルトラナショナリズム)、原発、棄民、基地、TPP……私たちの平和な現在は残酷な未来の予兆でなくてなんだろう。この地球の異星人たちが一列になって虹の橋へ消えていくラストは、希望とか絶望といった感傷を拒否する残酷で不可避な未来への投企なのだ。「虹の彼方に」というのはできない相談であって、虹の橋の麓にさえも私たちはけっして行き着けない。しかし彼女たちとともにゆっくりと虹の方へと動くことはできる、やめないかぎり。自らの「健常」を誇り、疑うことを知らない権力者たちが恐れるのは、やめない民衆だ。「虹の彼方に」という「できないことをやめない」作品が試すのは、健常と障害の線引きを越えた無限大の(不)可能性であり、残酷な未来にたいする私たち自身のささやかな挑戦なのである。


(1)金滿里「パラリンピックへの展望」『インパクション 特集 返上有理!2020東京オリンピック徹底批判』 194号、2014年4月10日、インパクト出版会、55頁。
(2) 同上。
(3)金は今回の公演でサックスとフルートの演奏を担当した山本公成との対談で、伝統の継承と断絶について、次のように述べている。「伝統とかクラシックとかいうと、小さい時から習っている人だけができる高尚なもの捉えがちやねんけども、そうではなくて、ほんとにそれを必要としている者がその時点で掴むものが、そっち側、伝統側にとっても必要とされてるんかもわからへんな。」(虹の彼方に見える身音(みね)」「IMAJU」Vol.38、2013冬、17頁。) 同じ対談の中で金は、韓国の古典芸能家だった母親から、17歳で施設から家に戻ったときに古典芸能を教えられた事実を語っている。このことは、伝統の継承が「障害」によって促された伝統に対する特権放棄によって初めて可能になることを示唆しているのではないだろうか。


もとはしてつや
一九五五年生まれ。東京経済大学教員。イギリス文学、カルチュラル・スタディーズ専攻。著書に『本当はこわいシェイクスピア』(講談社)、『カルチュラル・スタディーズへの招待』(大修館)、『ポストコロニアリズム』(岩波新書)、『シェイクスピアと近代思想』(河出書房新社)など。

「異文化の交差点・イマージュ」VOL.59 , 2014春


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