異風堂々 --金満里が語る劇団態変20年史--

構成/文責 柳井愛一


 1983年、「障害者にしかできない表現を芸術に高めること」を目指して劇団態変が誕生。大阪・天三カルチャーセンター、京都・西部講堂で『色は臭へど』を上演。 おそらく世界で最初の試みだろう。『色は臭へど』 から 『碧天彷徨』までの20年間、世界中で態変にしかできなかった、舞台の数々を振り返ってみたい。

『色は臭へど』 1983年6月、京大西部講堂(京都)・天三カルチャーセンター(大阪)
『色は臭へどⅡ』 1984年5月、タイニイアリス(東京) 他

-- 83年6月の大阪と京都での旗揚げ公演は、観客に対して挑発的で、生半可でない強烈な舞台が伝説になっていますね。

 セリフを使わず、身体性そのもので観客の中に入っていく、観る人を混乱させたいと考えていました。 そうでなくては障害者のリアリティは伝わらない。健常者が期待している障害者の在り方ってあるでしよう、それをぶっ飛ばしたかった。
 24歳の時に、それまでかかわってきた障害者の解放運動を辞めて、芝居を見たりする時間がとれるようになり、黒テントや唐十郎さん等の舞台を見始めたのですが、非日常的なものとしてイメ--ジされているのは繃帯を巻かれた精神異常者っぽい人物や、大きな腹話術の人形だったりするのです。一般的にもたれている障害者のイメ--ジが非日常を現すために使われている。だったら逆に非日常として扱われている私達自身が、それを逆手に取って、自分の世界観をぶつけてみたら、観ている人達の目から鱗が落ちるというか、世界観が拡がるのではないか、というのが着想のひとつだったのです。
 もうひとつは優生思想を撃ちたかった、当時アングラといっても、意識的にせよ、無意識的にせよ優生思想というものが根底にあったと思います。日常を逸脱させるものとして、障害者だったり奇形や人形だったり、そんなものが確実に演劇の中に出て来るんです。人間に限りなく近いけど、異物として自分達の中に同化されないものとして捉えられている。五体満足・優生思想に裏付けされている。そんな考え方を乗り越えられない芸術表現や芝居が、全然問題にされていないことが不思議でした。
 違う者としてそこにいるということを、逆の立場から表現する、逆転させてしまう。期待に添うような形ではなく、もっとぶっとぶような形でやらへんとアカンというのがあったので、感情等を投げつけてみました。観客はもう〝ブッタマゲ〟ですよね。

『ゲリラ・クヨクヨがおんねん』1985年6月、吹田市民会館 (吹田)
『でたいねん、コンチキショウ』1986年5月、京大西部講堂(京都)
『水は天からちりぬるを』1987年4月、サンシビック尼崎大ホール(尼崎)、 同和地区総合福祉センター(大阪)
『カイゴ・香湖KAlgo!』1987年10月、神楽田ホール (宇治)1988年4月、生野こどもの家(大阪)

-- 『水は天からちりぬるを』は金さん自身の出産体験をもとにして創られた作品ですね。

 『ゲリラクヨクヨがおんねん』は障害者解放運動からずっと一緒にやっていた役者が筋ジストロフィ--で死んでしまい、その追悼のための作品です。『でたいねん、コンチクシヨウ』は私が産休に入ったので他の劇団員だけで創った喜劇風の作品。
 『水は天からちりぬるを』では、いままでと違い、抽象的で感覚的なものが表現したくなりました。その時の自分の感性というものですね。生命の根源としての水を意識することと、自分が子供におっぱいを吸い続けられていたということ、そういった、その時の自分の感覚を、抽象的にどんどん展開してみました。
 巨大な和紙で丸い物を造り、最後にホースで作った噴水から水がワーッと出てくるのですが、その水を出すことによって生命の起源自体をも壊していく。親を乗り越えるということへの願いです。私自身親に反抗してきて、家出してきて、親なんか蹴倒してきたと思う。でも、自分が親になって。自分も踏まれ踏まれて、越えていかれる。私を越えていって欲しい。そんな願いですね。

『銀河叛乱'89 --月に接吻したかっただけなのです』1989年6月、伊丹・アイホール(伊丹)
『いざいほう in ながい』1990年10月、大阪長居公園 (大阪)
『Heal --癒しの森』1991年5月、中之島剣先公園 (大阪)
『銀河叛乱'91』1991年9月、 北沢タウンホール(東京)

-- いよいよ『銀河叛乱'89』。態変にとってエポックメーキング的な作品になりましたね。

 私の、宇宙観がものすごくでてきました。 それまではオムニバス形式で、シーンごとに完結させていたのですが、『銀河叛乱』では、身体のペースと宇宙観というものの一体感を出したかったので、一人一人の役者の特徴に合わせて場面を考えるのではなく、全体的な作品を創るということになりました。
 人間の身体が一つの宇宙だと思えるんです。一人ずつがみんな自分の身体の中に一つの宇宙をもっている。皮膚という境界線以外はすべて宇宙じゃないかと思います。皮膚の内側も宇宙なんです。だから、身体を動かすことによって全体の空気とか、宇宙の粒子とか密度とかいうものが変わっていく。身体性として指一本でも、中に流れている体液でも一瞬としてじっとしていない。そういうものを、瞬間的な、一瞬の物として捕まえることで大きな宇宙というものを意識しだすと、身体というものがすごいものだと思える様になりました。
 この時のテーマは、〝向こうの世〟というものと〝こっちの世界〟の違いというものがどこにあるのかということなんです。一つの命の終焉とか死とかを越えた向こうっていうのかな。死と生きていることの境目というのを観たかったんです。
 アイホールができた当初で、こういう使い方は態変だけなんですって、そう言われたんですが、舞台の裏の入口 を活かした美術を使いました。(現在、搬入口の上演中の使用は不可) アイホールの外が見えるんですよ。裏に寺が あって屋根が見えたり、自転車で人が通ったり、そういうものが向こうに見えているんですよ。真っ暗の客席から外を観ていると、もう別世界に見えるんですよね。その間で役者がその通路を通って現れて来る。あの世とこの世の境目を通ってくる。私にとって、宇宙を意識をするということは死を意識することだったんですね。

『静天のへきれき』 1992年3月、同和地区総合福祉センター体育館(大阪)
『夢みる奇想天外 (ウェルウィッチア)』 1992年5月、伊丹アイホール(伊丹)
『天国の森』1992年9月、National Theatre 他 (ケニア)
『『天』 3部作〜人は誰も心に森をもっている〜』1993年10月、伊丹アイホール(伊丹)
『ビジョンクエスト(通過儀礼)』 1993年11月 能勢じょうるりシアター(大阪)

-- 『静天のへきれき』と『夢みる奇想天外 (ウェルウィッチア)』、『天国の森』の『天』三部作を立て続けに発表し、ケニアでの初の海外公演と、92、93年の態変はすごく精力的に活動を行っていますね。

 『静天のへきれき』と『夢みる奇想天外 (ウェルウィッチア)』、『天国の森』という三部作は、 92年に三作とも作ったんです。
 『静天のへきれき』は、観客席に黒いドームを被してトンネルの様にして、トンネルの向こうにステージが丸く見える形にしたんです。トンネルの向こうの世界、『銀河叛乱』と反対の構造ですよね。銀河叛乱では向こうからこっちにやってくる世界なんですが、『静天』では閉ざされ、圧迫された世界の中から見える、隔絶されて切り取られた様な舞台を創りました。
 『夢みる奇想天外(ウェルウィッチア)』 ウェルウィッチアっていうのはナミビア砂漠にしか棲息しない、何千年もかかって葉っぱ一枚が伸びて行くようなサボテンのお化けみたいな植物なんです。海水の蒸気を取り込んでちょっとづつ成長するすごく不思議な植物なんです。
 そういう植物というのがどういう風に自分を意識し、世界を意識しているのかというイメ--ジで創った作品です。舞台美術と身体の関係性を意識して構成的に創った作品。『銀河叛乱』から抽象的というか、身体的になってきたと思うんですけど、それが『夢みる奇想天外(ウェルウィッチア)』ではかなり前面に出てきました。身体だけでなく、物と身体、物のように身体があるという様な感覚で構成し、物と確実に違う人間の体というのを際立たせることができました。
 『天国の森』というのはケニアにもって行った作品。『天国の森』というのは、深いヨーロッパ的な森を意識したのです、森の中でいろんな物語が展開していき、森全体で私の宇宙観のようなものを表現したかった。その中で世界中の象徴的な民族衣装を着た役者達が飛び回る、そういうものを創ったんですね。
 初めての海外がケニアだったってことが一番大きいかな。反応がダイレクトなので、障害者に対する差別という感覚がない。路上で障害者の人達が家族と一緒に物乞いをしているというのが普通の社会ですから。だから障害者が舞台の上に上がって表現するということにはびっくりしたようです。重度の障害者の男女の恋愛シーンがあるのですが、そうするとヒューヒューと口笛を吹く。ラブシーンやなというのがすぐに分かるんやな。それに対して拒否感なく受け入れられるというか、それを声援するという感じで観客が対応したのが印象的でした。ぎくしゃくして這って出てきたりしたら、出てきた瞬間にゲラゲラ笑ったりとか。「これが障害の独特の動きなんや」って、私達自身で思わされるところがあった。自分たちの表現性が鏡の様に返される、投げた物を直ぐに返される、だからやりがいがすごくあるんですよ。「なんやあの格好」なんて不躾な笑いを子供たちがするのですが、 すごくいいなあと思った。ケニアでの観客の反応から、人間の感動の基本に近い物を貰ったという感じはしています。その後、ヨ--ロッパとか日本の各地にいっているけど、本当に不躾な笑いというのはそこだけです。それが初めての海外公演ですから、すごく面白かったですね。

『山が動く』 --劇団態変&大野一雄コラボレーション-- 1994年5月、伊丹アイホール (伊丹)
『霊舞 地中花』 1994年9月、ウィングフィールド (大阪)
『ダ・キ・シ・メ・タイ!!』1995年5月、一心寺シアター(大阪)
   9月、東京芸術劇場(東京) 小ホール --東京国際舞台芸術フェスティバル'95参加-- 、他
『宇宙と遊ぶ』 --劇団態変&大野一雄コラボレーション -- 1996年1月、伊丹アイホール (伊丹)

-- 大野さんとの出会いというのも事件ですよね。

 アスベスト館の土方巽さんの奥さんの元藤燁子さんと大野一雄さんと私とで東京でワークショップの指導をすることになったんです。そこに役者も連れていったのですが、その時の大野さんの態変の役者に対しての興味の持ち方がすごかったんです。寝たっきりの木村年男の側にびったりとくっついて離れない。身体の表現に対し、子どもの様に素直な好奇心を示されるのに驚いた。教えるときもラクダのパッチとラクダのシャツで、胸をハサミで切りっぱなしのままで大きく開け、手には花一輪かざしただけで絵になり、稽古を付けるんです。形から入っているんじゃないんですよ。それ見てたらこの大野さんはただ者じゃない、なにか絶対得るものがあると思って、こちらから電話をさせてもらって。「一緒にやりたいんです」っていったんですよ、そしたら二つ返事で。電話の向こうで「いいですよ、いいですよ」って。魂の出会いですね(笑)。
 『山が動く』が一回目で、二回目のときに『宇宙と遊ぶ』。その二回目のときに大野さんが『わたしのお母さん』を作品の中でやりはったんですよ。『わたしのお母さん』はすごかった。どちらかと言えば最初の時の方が勝ちというがあって(笑)。でも、二回目は大野さんの『わたしのお母さん』がすごかった。ニ回目はそれぞれの作品を持ち寄って作ったんですよ、態変の持ち時間は態変だけがやって、次に大野さんだけがやって、その後で一緒にやるという、三部作形式なのですが、大野さんは自分自身の一番の最高作を持って来てくれました。大野さんが、マリアさんのようになってなにか被るんですけど、その時に衣装が端まで魚の鰭になるんです。大野さんの持論なのですが、大野さんのお母さんが亡くなる時のことを、「ヒラメの様に地面に着きながら跳ぶ瞬間というのは、力一杯だけど静かに、一身を瞬間に賭て、地面を持ち上げるようにして」それほどのこととして一身に踊るんだよと言ってくれた、というのを現わすところです。マリアさんの服の端が本当にヒラメの鰆みたいなんですよ。それが本当にすごかったです。そんな細部にまで魂が入っていくのが実感できた。大野一雄先生と出会ったことで、すごく成長させてもらったと思います。これがなかったら、私なんか、結構世の中を舐めていたのかもしれない(笑)。
 『霊舞〜地中花』は、座りっきりの松葉さとみと寝たっきりの木村年男の二人による30分づつのソロ作品です。重度の役者の演技をきっちりと見せたかったんです。
 『ダ・キ・シ・メ・タイ!!』は大阪の一心寺シアターが最初ですね。阪神大震災の年なんです、震災が起こり、沢山の人が亡くなりました、私の友人にも死んだ人がいます。なにかしなくてはという、駆られるような気持ちで創った作品です。『銀河叛乱』からの作品の流れの分岐点になった作品だと私自身は思っています。精神世界というか夢の中の世界と現実の世界との接点=繋ぎみたいなことができた作品です。

『BLOOM』1996年8月、Randolph Studio (エジンバラ) --- エジバラ・フェスティバル・フリンジ参加 ---
12月、伊丹アイホール(伊丹)他
『態変×天鼓LIVE』1997年1月、扇町ミュージアムスクエア
『死霊』/ 『DEPARTED SOUL (死霊)』1997年6月、伊丹アイホール (伊丹)
   8月、St.Bride's Centre / Springwell House (エジンバラ) --- エジンバラ・フェスティバル・フリンジ'97参加
   8月、Dampfzentrale (ベルン) 第11回ベルナー・タンツターゲ招聘
『MOVE』1998年4月、南区民文化センター(広島)

-- 海外からも注目されるようになりましたね。

 『BLOOM』くらいから、伝えたいメッセージというものを意識しだしました。花が咲く瞬間というのは、昆虫と花の例えでいうと、昆虫をおびき寄せるために花はいろんな色で咲いたり、匂いをだしたりして、昆虫が花粉を持っていてくれるかどうかという一瞬に賭けているんですよね。花が咲くという、一瞬の行為の元に壮絶な戦いが繰り広げられている。花という結果よりも、戦いのプロセスの方が大事なんや、結果よりもプロセスという、私の価値観を提示したかったんです。
 メッセージ性を強調したのは、やはりヨーロッパ公演を意識してのことです。ヨーロッパでは、良くも悪くも東洋的な曖昧な抽象性が伝わらない、「そら、やっぱり分からんわ」で終わってしまわれる危険性がある。それは辛いことですよね。海外公演では結局なにが伝わったのかということが大切ですから。そういう意味で『天国の森』をケニアでやった時には何が伝わったのかと、今でも思うんです(笑)。
 『死霊』『DEPARTED SOUL (死霊)』は、エジンバラとスイスのベルナータンツターゲに呼ばれました。こ れはすごく絶賛されました。エジンバラでもすごかったんですけど、スイスのベルンでは、カーテンコール鳴り止まずというか、今までで一番の拍手を貰いました。自分が、やっているときにはそれが、 そんなにすごいこととは分からないんですよ。自分としては最大限のものをだしている訳なのですが夢中なので。それに対しての評価ということは後でしか分からない。一緒に同行した、話を付けてくれた貫成人さんが言ってましたが、フェスティバルの主宰者が「今日ベルンで革命が起こった」と言ったそうです。そうやったのか、私らは'97年に革命起こしたのか(笑)。

『MY MOTHER(ウリ・オモニ)』1998年8月、Theatre Workshop (エジンバラ) --- エジンバラフェスティバル・フリンジ'98 ---
   1月、扇町ミュージアムスクエア (大阪)

-- 『ウリ・オモニ』という作品は、金さんのお母さん(金紅珠・朝鮮古典芸能の大家)と大野一雄さんに対するオマージュですね。

 大野さんに『わたしのお母さん』という日本語のタイトルを韓国語にして使わせて下さいと頼みました。『わたしのお母さん』というタイトルを付けるって、ちょっと不届きな話でしょう(笑)。だけど大野さんの持つ身体性というのを、自分なりのやり方で表現できるのは、やっぱり私以外にいないという自負心もあった(笑)。
 海外公演とかで、私なりにいろいろ経験を積んできて、私の作品としてちゃんとしたソロ作品を作ろうと考えていたときに、私の母親が死んだんです。それまでは考えたこともなかったけど、母親の芸や、魂、精神性の伝承ということに対して答えをだすことが避けて通れなくなった。なにかを、受け継がなくてはいけない、形としては受け継がないけど、自分の中でちゃんと落とし前を付けることが必要だと思ったんです。大野さんの身体性と、ウチの母親を同時に背負ってしまうことになりましたね。
 『ウリ・オモニ』 はやっぱり転機です。自分の身体で、重度の私の身体できっちりと一時間ものの作品を作るということを大野先生に監修してもらって、きっちりとやるということで、全てを身体性に集中させることができた。言葉で伝えたいことがあっても、なおかつ身体の方がより語れるから、身体を選ぶという情況が 『ウリ・オモニ』からはっきりとでてきたのです。舞台の上での身体の表現の仕方を、自分にも劇団員にも示す時期だったので、これはすごい転機ですよ。

『壺中一萬年祭』1999年3月、大阪トリイホール (大阪) --- 第1回大阪演劇祭参加 ---
『ラ・パルティーダ〜出発』1999年5月、アステールプラザ中ホール (広島)  --- 現地一般公募エキストラ3名出演 ---
『微風』1999年6月、大阪教育センター(大阪)
『ウリ・オモニ』1999年7月、タイニイアリス(東京) --- アリスフェスティバル'99参加 ---
   8月、Thikwa aterier (ベルリン)
『色は臭へどⅢ』1999年9月、大阪築港赤レンガ倉庫敷地内特設テント(大阪) --- 第1回大阪野外演劇フェスティバル参加 ---
『BLOOM』1999年12月、箕面メイプルホール大ホール (大阪)

 『壺中一萬年祭』は、大阪演劇祭の連携企画として3年間続けました。芸術とか身体表現から遠い、芸術とは関係ないと思っている人達を巻き込んで、身体表現とか芸術とかいうものに触れることのできる場を提供していく目的で、『壺中一萬年祭』のオーディションは始まりました。70人あまりの人が体育館にやってきて、それぞれがすごいアピール性を持って身体を動かすんです。びっくりという感じ。面白かったですよこの三年間。
 施設までいったんですよ、ワークショップをして、来て下さいよって、いろんな処に足繁く行って開拓していったんです。じっと待っていて、オーディションに参加してくれ、なんていっても誰もきてくれへんでしょう。施設を廻って、一人でも二人でも良いからワークショップに参加してもらって、オーディションを受ける気を起こさせた。参加を呼びかけることも含めてやっていかないと、待っているだけでは、あれだけの人達が集まるわけはないんです。私達の場合は、開かれていないし、場がないし。自分が行っていいところだと思っていないんです。まして出演するなんてとんでもないことと思っているわけです。トリイホールの時にエキストラで出演した人なんですが、最後のシーンが終っても、去らないんです。去りたくないんですよね。帰りたくないって(笑)。『壺中一萬年祭』という形でそういう場が提供できて、三年間やれたのは本当に楽しかったです。
 『色は臭へどⅢ』は16年ぶりのリメイクですから大分中身を変えました。16年前と同じ様に攻撃的なものを求めてもダメでしょう。初演の時の『色は臭へど』は出演者が地でやれたから面白かったわけで、今はみんな役者になっているのだから、同じことをしてもやらせになってしまいます。『色は臭へど』の方はビジュアルで楽しみました。でも、ちょっときつい戦闘シーンみたいなものも入れました。世の中に対する不安みたいなものはありますから、そういうシーンを回避してはいけないと思います。

『壺中一萬年祭』2000年3月、扇町ミュージアムスクエア (大阪) --- 第2回大阪演劇祭連携企画 ---
『微風』2000年5月、国立民俗学博物館(大阪)他
『ウリ・オモニ』2000年6月、シアターフォーラム・クロイツベルグ(ベルリン)
『縄文魂宇宙』2000年7月、ホテルサンルートいわき (福島)  --- 第37回『風の祭り』参加 ---
『BLOOM』2001年、2月、せせらぎホール(奈良)
『壺中萬年祭2001』2001年3月、扇町ミュージアムスクエア (大阪) --- 第3回大阪演劇祭参加 ---
『ボルテックス・フュージョン ----うずまきまぜる』2001年7月、大阪国際展示場 (大阪)
『マハラバ伝説 (Die Maha-lahn Dorf Historie)』2001年9月、Theater Karlshorst (ベルリン)
     --- ベルリン市議会 『アジア太平洋週間』招聘企画 ---
『ウリ・オモニ』2001年12月、メタモルホール (大阪)

-- 『マハラバ伝説』はかなり自伝的要素が濃い作品ですね。発表順序が前後しますが、 『碧天彷徨』の後日談ですよね。

 『ウリ・オモニ』 で、私のひとつの体験に対して、母親という抜き差し難いものを題材にするということで向き合ってみたのですが、『マハラパ伝説』もまた、自分のやってきた運動 ---- 障害者運動が挫折したことで芝居を始めたのですけど ---- 挫折した障害者解放運動へのこだわりということを清算しよう、自分なりに落とし前をつけようということで創った作品です。実際に存在した障害者だけのコミューンが崩壊する物語です。『ウリ・オモニ』以降、一つづつ落とし前をつけていっているような感じがします。悶々として、混沌としている自分の中の整理が就かないものを、抽象的な形で取り出し、身体で考えるというプロセスだったと思います。『ダ・キ・シ・メ・タイ!!』あたりから、夢の世界と現実の世界を付き合わせたり、現実に生きるということはどういうことなのだろうかという問題に向かい合うようになりました。 それが、『ウリ・オモニ』や『マハラバ伝説』という形で発展していったんですね。

『マハラバ伝説』2002年2月、伊丹アイホール(伊丹)
   5月、読谷村文化センターホール (沖縄)
『夏至夜夏 --- まなつのよのゆめ』2002年9月、大阪城公園太陽の広場特設テント --- 第2回大阪野外演劇フェスティバル参加 ---
『ウリ・オモニ』2002年10月 パレット市民劇場 (沖縄)

-- 重たいテーマの作品の後に『真夏の世の夢』をテントで上演、ちょっと息抜きという感じですね。

 これは以外と評判が良いんです。 シェークスピアの作品を、古典の戯曲を、態変風にどう解釈できるかということで結構注目されていたと思います。特に『マハラバ伝説』の後ですから、これで外していたら今までやってきたことが「何やってるねん」ということになるんじゃないかとか、「解釈もなにもむちゃくちゃやないか」といわれたらどうしようかと(笑)、そう思うと息抜きにはならなかったですよ。でも、楽しめた、完全に楽しめたので、結果的には古典作品に挑戦してみて良かったですね。

『マハラバ伝説』2003年、2月、可児市文化創造センター宇宙のホール(岐阜)
『碧天彷徨』2003年10月、ウイングフィールド(大阪)
   11月、タイニイアリス (東京)

-- 『碧天彷徨』になるんですけど。これは夢と現実ということでは現実の側から作っていった作品だと思うのですが。

 現実と向き合うということを、彷徨しながら手繰り寄せて行くという、非常に現代的なテーマだと思います。 今の世の中の現状に、若い人達も含めてですけど、どう立ち向かって行くのか。そういう、ひとりの人間の普遍的な問題を提起したかった。『マハラバ伝説』の前の物語なんです。三部作にしたいんですよ、碧天があってマハラバがあってそして次、次は六月にやるんですけど ---- 東京公演、それに韓国公演もあるかもしれないという話なんですが ----『碧天』がさまよいながら何かを見つけようとする話で、『マハラバ』では自分たちのコミューンを作るのだけど、それが崩壊してしまう。創造と破壊が連綿と続く中で、なにをつかむことができるのか? そういうテーマが次にくると思うんです。『碧天彷徨』で初めて自分の体験というものをストレートに作品にしたのですが、体験譚のままで終わらせたくない。私が意識したのは『色は臭へど』から20年目にして、態変の初心に帰ってみるということなんです。今『色は〜』と同じことをしていては絶対ダメですが、エッセンス、自分たちがもっている今の情況の中で、同じエネルギー、いやそれ以上のエネルギーを今ださなあかんかもしれへん、というような感じで『色は臭へど』に帰ることを意識したのです。
 『碧天彷徨』で、新しいものを模索するのではなくって、思い切って原点へ戻るということをやってみて、改めて20年という歳月が良かったと思えてきます。
 次作は、私自身の体験からは離れたいんですよ。『マハラバ』の中では、コミューンを障害者自身が作り、それが崩壊する。『碧天彷徨』というのは施設からの脱走ですから、その中では破壊なんです。だから今度は創造の形を作らないとアカンなと思っています。崩壊させたままではちょっと身も蓋ないでしょう。
 理想というか、なにかをひき継ぎ、なにかを未来に持っていく。そんななにかに対するビジョンを形にできればと思います。私自身が落ち着くというか、ちょっと安心できるために、三部作の最後は希望が持てる作品にしたいんです。


やないあいいち 演劇情報誌『JAMCI』スタッフを経てフリーのライターに。『劇の宇宙』等に執筆。