劇評 劇団態変 「ヴォイツェク 」

男の中の女性性の封殺

〜態変「ヴォイツェク」が記憶化する相模原障害者施設殺傷事件


倉田めば


 「ヴォイツェク」を観にメタモルホールに自転車で行ってきた。 金満里の本作にかける意気込みが伝わってくる衝撃的な舞台だった。 「ヴォイツェク」は1835年にゲオルグ・ビューヒナーによって書かれた戯曲で、実際の殺人事件をモデルにしている。マリーという愛人が他の男と密会したことから、彼女を刺し殺したヴォイツェクは逮捕され、 2年間の精神鑑定の後公開処刑になるという話。
 舞台音楽としてヤクート族の口琴が使われていたが、その弾力性のある変幻な音は、パフォーマーたちの身体のバネが起動する自在さと小気味よく共振していた。 下村雅哉演じるヴォイツェクの、床の上で自己充足的になよなよと動く身体は、男性が自分の中にある受容的な女性エロスにたゆたっているようだった。それとは対照的に小林加世子の演じる医者は、美しくも自分の身体をぐるぐる巻きにしている見えない包帯を裂き破ってそこから飛び出すことで両性具有性を解き放とうとしているような動きに思えた。 原作のビューヒナーの戯曲の中では意地悪な医者は3ヶ月間もヴォイツェクにえんどう豆だけを食わせたあげく、彼の中の女性性をからかうのである。
 マリーという愛人を殺すきっかけとなったのは、荒くれ者の鼓手長とマリーとの密通であった。舞台の上では鼓手長に足蹴にされ、男性性と女性性の間を行きつ戻りつバランスをとっていたヴォイツェクの感情が破綻する。 怒りによって彼の内なる女性性は封殺されてしまったのだ。 傷痍軍人の衣装を着た一人の男ヴォイツェクが銀色に光るナイフを手に持ち、マリーの眠る閨(ねや)にヨタヨタと近づきすだれを上げる。
 そこには、マリーがいた。 マリーを演じたパフォーマーは向井望。 彼女は四肢が欠損しており、 ほぼ上半身だけに見える肉体が妖しい光を帯びてあおむけに横たわっている。他の4人のパフォーマー達と同じように顔には真っ白な舞台メイクが施されていた。ヴォイツェクは、マリーの体の上にゆっくりとナイフを振りかざす。 観客席のスタンドの一番上の客席から観ていると、ヴォイツェクの顔がすだれに隠れていた分、恐怖感が増した。 ナイフが振り下ろされる直前に、すだれが下りてきて舞台は暗転となった。叫び声すら聞こえない。
 このマリー殺しのシーンは、ことしの7月26日に起こった相模原障害者施設津久井やまゆり園での殺傷事件を思い起こさせる。 寝ている重度知的障害者を夜中次々に襲っては殺傷するというとんでもなく痛ましい事件だったが、3ヶ月近く時間が経過して、早くも人々の記憶の中から少しずつ忘れ去られていっているのではないかと思うフシがある。 事件の記憶として頭に残っていくための材料があまりにも少なすぎるのだ。例えば私は死刑制度には反対だが、それは国家による殺人というものに自分も加担しているという概念的なものもあるが、それ以上に死刑に対して様々なイマジネーションが働いた結果、反対をしているのだ。 私は永山則夫の著作を3冊は読んでいるが、死刑が執行されたというニュースを聞いたときに、様々な具体的なシーンを想像した。他の死刑囚の場合でも、死刑の手順に関する資料を読んだだけでも、死刑囚の身への想像が掻き立てられ、想いを馳せることによって、あってはならない刑罰だと思うのだ。だが、津久井やまゆり園の事件にイマジネーションを働かせてみても、号外の紙面や、逮捕された虐殺犯の写真は頭に浮かぶが、事件の現場について想像を巡らしても、そこには記号しかないのである。
 だが今回、態変の「ヴォイツェク」でマリー刺殺のシーンを目に焼き付けたことによって、 津久井やまゆり園の事件へのイマジネーションが呼び覚まされ私の頭に保存されたのである。 だって、見よ。 実際に起こった事件 (1821年)から14年後にビュヒナーによって「ヴォイツェク」は作品化され、作者の死後40年を経て日の目を見、それから様々なところで上演されてきているのである。演劇などの芸術という回路を通して事件を記憶したり考えたりするという刻まれ方にはリアリティがある。 態変が「ヴォイツェク」を取り上げるのは本公演で2度目だと聞く。 初演のラストではヴォイツェクの手には血まみれのナイフが握られていたそうだ。しかし本公演では、 マリーの刺殺シーンにしても、ラスト「白日に晒される者として」と題された公開処刑シーンにしても、演劇の中で赤い血は一滴たりとも流されなかった。ヴォイツェクはヨタヨタと舞台の真ん中に出てきて顔をあげて観客席の方に目を向くやいなや、ガクンと首を垂れただけだったのである。血生臭いのは現実の方だといいたいばかりの演出だった。

くらためば
薬物依存回復施設大阪ダルクディレクター。 薬物依存からの回復を多角的に支援する団体Freedom 代表。 元職業カメラマン。 パフォーマンスアート、詩作などの表現活動も行なっている。 大阪市東淀川区在住。



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