これは何かある! と直感が働き2000年のアイホールへ観に行った、ジョゼフ・ナジの「ヴォイツェク」。
それは、訳が分からない心地よさで、とにかく衝撃的だった。
まるで意味を介在させない、緩慢な身体の運びで舞台上、出ては消え同じ円の描きを繰り返す表現者の身体。
身体も舞台周りの美術も殺風景な灰色の世界があるばかり。
息をすることもないような、徹底的に暗く押し殺した重圧感だが、不思議に軽いのだ。
いつかやりたい! 態変の身体でこそ、これはやると面白いゾ。又、そう直感した。
そして13年後にやろうと、原作をとりよせると、これが、予想もしていなかった悲惨な展開の物語ではないか!
態変の身体表現者たちは最近めきめきその表現性に磨きがかかって、舞台空間を身体表現でもって自由自在に伸縮自在に変化させる、パフォーマーと呼ぶに相応しくなってきている。
やはり今がやりどきかも知れない。
悲惨さを単に悲惨ではすませない、重々しい苦渋をどん底でなめるような、身体の快楽を現せる本質を描きたいと、無欲で無機質な貪欲さを矛盾の極みとするような、そんなパフォーマーの身体を求めて。
金満里
ゲオルグ・ビュヒナーの『ヴォツェック』。
劇団態変の『ヴォツェック』。
いま、聞き取っておかなければならない言葉と
感じておかなければならない体とが交錯する、
鮮烈な空間と時が立ち現れるに違いない。
劇団態変が『ヴォイツェック』を上演する
G・ビュヒナー作『ヴォイツェック』は「衝動的殺人」を描いた作品として遍く知られている。兵士ヴォイツェックはなぜ情婦マリーを殺害するにいたったのか。19世紀前半に書かれたこの未完の戯曲は20世紀後半に登場する不条理劇の先駆とも言われた。その背景には、確たる理由で説明のつかなくなった現代社会がある。誰にも納得のいく「普遍性」が失効したのである。
劇団態変の肉体表現もまた誰もが納得しうるものではない。重度の障がい者である彼らの身体表現は通常見慣れたものとは異なる。彼らにしかできない交換不可能な技芸は他者と自分を分かつだけで、普遍的な評価基準である「優劣」や「美醜」とは別の基準を観る者に問いかけてくるだろう。
『ヴォイツェク』を手がけたのは演劇人や映画人ばかりではなかった。身体という存在を追求する多くの表現者をもこの戯曲は魅了し、たとえば、フランス・ヌーヴェルダンスの旗手ジョゼフ・ナジも例外ではなかった。その舞台では、横暴な上官や貧困、最愛の者の裏切りという過酷な状況のなか、ついに殺人に手を染める兵士ヴォイツェクの狂気が、単なる観念としてではなく、「肉体」、あるいはむしろ「肉塊」とでもいうべき存在として現前したのであった。演劇とダンスの境を突き抜けた戯曲が『ヴォイツェク』だ。そのように考えれば、劇団態変ほど、この作品に取り組むのにふさわしいカンパニーはない。可能性の極限まで突き詰められたかれらの身体とその存在感、わずかな所作の変化によって多彩な表情を生み出すその表現、劇的な効果をもたらすその緻密な構成によって、劇団態変の『ヴォイツェク』は、これまでだれも知らなかった体験を、わたしたち観客にもたらすにちがいない。