「ヒューマニズムの否定」は近い
西村博子(タイニイアリス主宰)
威容を誇る、まるでカフカの門のように人を拒否する山門。その遥か遠くにある、決して到達できないような曼荼羅と高く険しい山々。そこへ人々がやってきて様々なことをする。そしてやがて、何やら長い時間かかって文字を書き、それが高々と揚がっていく。と、そこに大書されていたのは「健常者文明を否定する/強烈な自己主張を行なう」「CP者たるを自覚する/愛と正義を否定する」という文字であった。背筋がスゥーとした。久しぶりに覚えた感動だった。
パンフレットに、これはかつて、実際にあったコミュニティの話だとあったし、金満里さんもカーテンコールで「初めてストーリーのある芝居を創ってみました」と言っていたし、どうやらこの作品は、人々がそれぞれ山へ集ってきて、そこで共同生活をし、やがてそれが女性を奪い合う男性たちの争いによって崩壊し、ついに先の強烈な自己主張もハラリ、ハラリと地に墜ちていって、跡には何にも残らなかった、という芝居であったらしい。
「らしい」と言ったのは、何をしているかよくわからないシーンも正直言ってあったからである。が、筋がわかるわからないは、演劇にとってさしたる問題ではない。七人の俳優のそれぞれの体の個性を生かした、変化ある各シーンで、狼煙をあげるようにスローガンを掲げる今言った場を頂点にして一つの有機的な起承転結を舞台に構成していこうとする、その姿勢が快かった。そのうちサインちょうだいと楽屋にファンが押し寄せるかも知れない、俳優の美しい瞬間もあった。何だかよくわからない不思議な箱がスウーッと舞台に出てきて、やがてスウーッと去っていったりするのも、あれは何だろ?と想像力を生き生きさせてくれて良かった。
芝居をみるものは必ずしも創り手の意図に沿ってだけ見ていくとは限らない。筋以外にもあれを見、これを感じ、期待を持たせるシーンはもっと見たいと思い、体の動きが繰り返しになったり、ただ入・退場待ちになったりするところは早く終われと願うものである。全体を、不要なところは切り詰めて半分か、せいぜい3分の2ぐらいにして、アジアの、同じように体のハンディキャップを表現の武器に逆転しようとしている劇団たちと、さあどちらの舞台が面白いか、創造競争ができないものかなあと、思わず夢見てしまった。まだ全体に、体を動かそう動かそうとする意識が勝っているが、たとえば二幕の第二シーン、五人の俳優の行列のような、動こうとして動けないシーンなども、もっともっと考えられていいのではないかとも思った。初めて態変にタイニイ アリスへ来てもらった「色は臭へど」のときの、「暗闇のなかの官能」と評された息を呑むような素晴らしい食事のシーンが思い出される。最近では劇団ベターポーズの、男女の指1本でする不能なセックスシーンも面白かった。
体というものは、それが所謂健常者のものであれ身障者のものであれ、所詮素材にすぎない、と私は思っている。どんな体だって、あるいはその動きだって、それだけ見るというのであれば3分がせいぜい、5分もすれば飽きてしまう。飽きないのは、大野一雄や山海塾の舞踏がいい例だと思うが、順列組み合わせといっていいほど同じことは決して繰り返さないその動きと、華である。それが一つの構造を持ち、その上の願いとしては状況との決然とした対峙、緊張関係があれば申し分ない同時代演劇となる。今度の「マハラバ伝説」には確実にその萌芽があった。もうあと一歩と思った。
私の信頼する芝居見の一人に私の夢を話したら、ハンディキャップの人たちの芝居はできれば見たくない、と言う。それをプロデュースするのは福祉の仕事みたいだというのだ。私の想像するに、ハンディキャップにもかかわらずけなげだなどと芝居を見ながら思いはしないか、自分の心の動きが嫌だというのであろう。ハンディキャップの人たちの芝居だから観にいくというのでなく、他の芝居より魅力的だから、見逃せない芝居だから行くというようにならなければならない。その芝居に他の芝居にはない価値の転倒、もう一つの美がなければならない。「マハラバ伝説」の真似ながら「ヒューマニズムなんか否定する」と大きな声で言える日はもうすぐだ--伊丹アイホールの舞台を見ながら、私はそう思った。
情報誌イマージュVOL.24 , 2002
足趾で書く - 日本から来た障碍者の身体芸術
Christoph Müller
「Theater der Welt」は「新しい主役」の探索中だ。一日前には、このシュトゥットガルトの大規模な舞台フェスティバルで、ニューヨークの劇団のイプセン解釈、ノーマルに成長したノラが観客の頭を混乱させた。今回は、7人の様々な障碍や変形を持つ重度の身体障碍者たちが大阪から来て、その身体を暗幕の裾からステージへ転げて現れ、象徴的な無限の摺動としか言いようのない動きをする。移り変わる配置と空間関係の中を動く彫刻だ。
日本のパフォーマー集団「Taihen」は結成22年。「Taihen」はメタモルフォーゼ(変容)を意味する。そして、実際にすべてが変容する。観客の知覚や感受性も例外ではない。不穏な気持ち---自分が盗み見をしているような感じ---はすぐに消え、次第に自分自身に疑問を抱くようになる。それって一体何なのか、普通の基準に従った健康で無傷の身体とは? 表現力にとって---そして芸術家の構想力にとって、彼の身体の形が他者と異なり、手指ではなく足趾で文字を書いたり絵を描いたり、いわば足と手を入れ替えたような状態であるということは、どのような意味を持つのだろうか?
一言も発せられない
この作品のタイトルは「マハラバ村の伝説」である。しかし、この作品は何も物語らず言葉は何も発しない。また、従来の意味でのダンスやパントマイムもなされない。にもかかわらず、身体の動きから独特な何かが生まれ、それは別の種類の示唆に富んだ詩へと変わっていく。一つの創世記。だがハッピーエンドはない。
鉄道車両のガタガタ音が聞こえてきて、アウシュヴィッツを思い出させる(「価値のない生命」は、ナチスの絶滅の狂信の基本要素だった)。銃声が聞こえる。捻じ曲がった胎児を満載した木製の台車が舞台に押し出されてくる---それは国家によって脅かされる命だ。
しかし、これは観客自身が関連付けて理解しなければならない。そうしなくてもかまわない。なぜなら、舞台上の7人は、啓蒙的なデモンストレーションの意味で告発したり同情を求めたりする意図は全くないからだ。彼らにはその必要もない。彼らは、制限されているからこそ拡大された身体の法則に、圧倒的な当然さで従っているだけなのだから。体操のように見えるかもしれない彼らの動きは、禅仏教がするのと同じようなことを行なう:世界観、人間観、芸術観に、その識別力や分離性能を失なわしめ、この劇場に入館したときに携えていたものとは変えてしまう。このフェスティバルで最も感動的な公演だった。
2005年7月2日 Südwestpresse紙
新しい身体の世界
Petra Bail
『The Legend of Maha-Laba Village』−身体障害者による舞踊 in 『Theater derWelt』
シュトゥットゥガルト − 役者たちは舞台の上を転がり、這い回り、体を曲がりくねらせて踊る。7人いる役者のうち3人は立って歩くことができないが、床の上で繰り広げられるその身体の動きは今までに見たことの無いような独自性と異質さを兼ね備えた美しさである。3歳の時に小児麻痺にかかった振付師であり監督である金満里氏は今から22年前に他の身体障害者らとともに大阪で劇団『態変』を立ち上げた。劇団の名前は変身や変形を意味する言葉メタモルフォーゼに由来している。 この『態変』による公演は明日まで見ることが可能である。
『マハラバ伝説』での身体表現は身体障害者が持つ身体の動き、そして彼らが持つ自分特有の表現方法を全く新しい身体表現の世界に組み入れて見せる事がテーマである。監督である金満里氏は障害に対し否定的な価値観を植えつけてきた従来の慣習に対し厳格な姿勢を持っている。『態変』のパフォーマンスにはアクロバティックなジャンプ等というものはない、逆にそれは技巧を凝らした演出の場面を創り出すという基準から反れた身体や手足によるものである。障害のため奇形した手足はしかし、照明で照らされた舞台空間の中で非常に繊細な動きを見せる。重力に逆らうコントロールされない身体の動き、無意識から来る身体の動きの流れ、形が左右対称ではないこと、それらは52歳の監督金氏がテーマとしていることである。彼女は障害者の権利のために社会的、政治的な運動を起こしている第一人者ではない、障害を芸術的要素として捉え、今までにはなかった芸術世界を切り開いている第一人者なのである。
日頃、車いすや介護に頼っている役者たちも舞台の上では完全に独立しているように見える、そして自らが生み出した美しい身体言語を政治的、文化的規律の枠を超えて築き上げていくのである。
自我を意識した表現
信じられないほどの力とエネルギーで金満里氏は舞台の上を渦巻き状に転がっていく、そうすることで上半身と下半身そして動かす事ができない脚を一緒に動かす事ができるのである。人生の中で心に深く刻みつけられたイメージが自らの自覚、自信に基づいて生み出される。そしてそれは誰の物とも違う自分自身だけのものなのである。こうした全く別々で多様な実現性を秘めて7人の身体表現の役者たちは言葉を使うことなく、健常者文明によって抹殺されて逃げ出してきた障害者たちが創り上げる共同体の物語を演じるのである。
『マハラバ伝説』は1960年代に脳性麻痺者たちが世間から切り離されて暮らしていた実際に存在した共同体をもとにしている。監督金満里氏はそこから3つのシーンに分けて振り付けを作り出した。第1部「命からがら逃げてきた」、第2部「回想、ゲットーから死への行進」、第3部「土着と浮遊性」はこの詩情豊かで奇妙な健常者文明に対抗する天地創造の物語の構成場面である。しかし一方で、物語の中ではコミューンの人間たちが健常者文明の産物である赤いブラジャーにミ二スカートを身につけようとするシーンや、巨大なナイフやフォークを使おうと試みるシーンがちょこっと含まれている。また、奇形した胎児をたくさん詰め込んだ恐ろしいトロッコが登場するシーン、それは価値ある命の破壊を想起させる。そして最後のシーンでは強い風が文明のシンボルであった書を吹き飛ばしてしまう。
2005年7月2日 Cannstatter Zeitung紙
「規範の枠組みを超えて」
Claudia Gass
女性の上半身だけが、こげ茶のタフタの布の波の中から突出ている。彼女の力のない足は床の上で困惑げに痛々しく横たえられている。しかし、その顔、身振り、ジェスチャーは生命力と表現力に満ちている。両手で彼女は足をつかみ、手足を肩の周りで蛇女のように曲げている。このパフォーマンス集団「劇団態変」の創設者の金満里は、重度身体障害者である。また、彼女とともにTheaterhausの舞台で「マハラバ伝説」をやっている他の役者たち六人も同様である。
この日本人たちはアウトサイダーが創った集団の歴史を物語る。この集団は地球の片隅に、人間性と受容に満ちた自分たちの共同体を作り上げるのだ。彼らは空っぽの舞台を囲い込んでいる暗幕から転がり出てくる。幾人かの役者、例えば金滿里は、座ったままでないと動くことができないし、寝転がったままで限られた演技しかできない役者もいる。黒子と呼ばれる黒づくめの助手たちが、ハンディのある役者たちを日常生活においてもずっと世話をしているが、彼らがこの踊り手たちを舞台へ運び込み、小道具を目立たないように運んでくる。
だが、私はこの演技者たちができないことについて語るつもりはなく、彼らの能力について話そう。どの踊り手も自分の個人的なハンディキャップを一つの専門性とし、特定のダンススタイルを超えた、名人芸的な動きへと高めていた。小泉ゆうすけは自分の腕の切断された付け根を使って絵を描くことはできないが、足の指の間に筆をはさんでを紙の上に軽やかに書道をする。轟く機械音がゲットーと死を思い出させる息苦しいシーンでは、演技者たちは包帯で縛られた手足を、巧みに、そして表現力豊かにほどいていく。うっとりさせるようなデュオが男と女の恋物語を見せる。愛情のこもった抱擁をしながら二人は舞台に転がり、その後、男性は女性を囲んで踊ります。近づき合う二人の手は、触れ合うことなく、優しく、慎重に距離を埋めていきます。しかし、金滿里が劇的に構成したこのパフォーマンスは、悲しみ、暴力、タブーも描かずにはいない。身障者にとってきわめて扱いにくいテーマである、家族や子どもを作りたいという願いも鳴り響いている。奇形の人形が詰め込まれたトロッコが舞台に運び込まれ、安楽死、つまり価値のないとみなされた生命の抹殺を暗示している。金滿里は、冒頭で述べた布の包みから布製の鶏を取り出し、その首をかみちぎります。いいえ、これはソフトに仕上げられた、差別を否定する身障者演劇などではないのだ。
このダンスシアターを観ることに、演技者たちの障害がまったく影響していないと言うのは不誠実であろう。踊り手たちが自分たちの制限や異質さを率直に観せるやり方は、ことに、規範化された美の理想によって完璧に様式化された身体をありがたがる社会ではなおさら挑発的だろう。しかし、それを受け入れると、舞台上で繰り広げられる出来事は、純粋な美意識と詩情を醸し出してくれるだろう。役者たちがいかなるカテゴリーや規範にも当てはまらない芸術を当然のことのように、誠実に、そして何よりも喜びをもって観せるとき、彼らの障害は忘れられることはないにしても、それが対して重要ではないものとなっている。なぜなら、その表現が普遍的な人間性を指し示しているからである。仏教の曼荼羅によって象徴されるマハラバ村は物語の最後で崩壊し、争いや嫉妬がこの理想的な共同体を内側から破壊する。しかし、態変の役者たちは到達不可能な理想郷など必要としないだろう。彼らは自分たちの夢を人生に取り入れている。芸術の力を借りて、彼らは自らの肉体によって課せられた限界を乗り越えているのである。
2005.7.2 Stuttgart Zeitung紙
「マハラバ伝説」- 挑発する愛の営み
Brigitte Jahningen
心臓の鼓動、ヨーロッパ的音楽の断片、女の哀歌。人間という生き物の地べたの営み:転げ回る肉体、遅い動作の流れ、痙攣する顔、無二の天与のシンコペーション(リズム撹乱)。観客にとっては視ることの学びを経て、断片から全体が現れる。これは挑発なのか、愛の営みなのか?
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日本から来た劇団態変の『マハラバ伝説』は、洗練された光と影のコンセプトと印象的な音のコラージュを伴うダンスシアターパフォーマンスであり、「Theater der Welt(世界劇場)」をめぐる議論に、おそらく最も異例の貢献をするだろう。マハラバ村の伝説は、ある土地のことを語る。そこでは排除された者たち(ここで、これが重度の身体障碍者たちによる劇なのだと述べておく必要はあるだろうか?)が、自分たちのやり方で共同体を創る。この寓話(振付・演出:マンリ・キム)は、村の曼荼羅のあるテント寺院から始まる。言葉を使わずに、手、足、そして激しい上半身の動きを使って、物語が語られる。水滴の音に合わせて、種まき、植栽、場所取りにより、占有ということが起こる。美しい世界が讚えられる。
いわゆるノーマルな人たちから遠く隔たった所にある人間的な共同体には、奇妙な踊りと、このエネルギッシュな身体にグロテスクな誇張を加える仮面舞踏会ほどふさわしいものがあるだろうか。祝祭は終わり、日常が戻る。
法螺が鳴らされ、手と足で白い背景に書道が書かれ、おそらくは共同生活のルールなのだろう、それが寺院のテントに皆に見えるように貼られる。しかしながら、人間というものは規則を破るものだ。こうして、一羽の鶏が大量殺戮のシンボルとして血の色をしたヴェールのダンスの中で頭をなくすと(金満里のソロで)、今度はダンサーたちが舞台の上で霧の中、転げまわり、殺戮装置の雑音の方へとなだれ込んでいく。
変容は可能だ:絶望から勇気が生まれる
再びこの転げまわる身体、ソロ、また群舞によって、揺れ、震え、意図的でありながら無秩序に見える動き、行きつ戻りつ、まるで仰向けになり自力では起き上がれない虫のように---絶対的な無力感の始原的表現となっている。
しかし、変容(態変は、メタモルフォーゼ(変身・変容)を意味する)は可能である。絶望から勇気が生まれ、命が育まれ、ダンサーたちにとって束縛は新たな自由と愛の遊びの要素へと変わる。優しい指の戯れがあり、肌と肌が触れ合い、子どもが生れる。
しかし、人間の歴史はまた過ちを繰り返す:奇形の子どもたちは殺され、車で運びさられる。氷の嵐。舞台は荒涼としている。観客の目に涙があふれるが、同時に、勇気ある挑発的なこの芸術家たちの愛に満ちた作品に歓声を上げる。
2005.7.02 Stuttgart Nachrichten紙