庭は、私の作品的イメージとしてよく出てくる、好きなモチーフである。
庭で思いだすのが、私の幼い頃、家に桜の木がある小さな庭があったのと、中学生の頃、よくある夏休みの宿題の作品作りに、箱庭を作って出展したことだ。
幼い頃のそれは、病院暮らしの私は、土には一種独特の憧れと劣等感があった。だからたまに家へ外泊で帰ると家の庭は、縁側から直ぐに土を感じられる小さな自然、が嬉しかった。しかしそれは私のものではなく、その時々の家の事情に合わせて桜の木が切られたりと、大人の勝手に変容していくものだった。
中学生のときの箱庭は、心理学に興味を持ちだしていた私に、心理療法に箱庭療法というのがあるというのを知り、やって見ようと思った。そのときは、周りにある土と木切れや草をちぎったものをアルミ箔で仕切って作った、結果的には、汚い何が何だかわからない、未完成のものだった。しかし施設の表玄関の真中にデンとある卓球台が展示場となるそれは、粗末で汚く恥ずかしい、というよりもその汚さが何だか自慢であったように思う。
何でもいいから野性的に、土や木、草を、問題にしたいという姿勢を、誰しも思いながらできない施設での管理された子供心にとって、何か自分に突破口を開いたぞ、という気持ちである。
「隣の芝生は青い」や「あなたの庭では遊ばない」という言葉があるように庭とは、自分と他者を隔てそして比べる最初の自我の目覚め、そして行きつく砦のようなものであろうか。私の今最も好きな庭のイメージは『壺中一萬年祭』の「四角い湿地の庭」である。決して綺麗でも居心地よくもないが、渇きと湿りが同時にあるような、蔦や棘があり危険そうな木や植物に囲まれて、外敵から身を隠すのに適した伸び伸びできる楽しい庭である。
ここでは、これまでのものとは又違った私の、幾通りにも変容していく顔が見えるような、そんな庭作りにしていけたら。あなたの席も用意できればと思っている。
次へ