表現する徹底非暴力の反戦通信46

 「表現する徹底非暴力の反戦通信」は、私の個人紙として出している、メール通信です。この通信のコンセプトは、イラクのアメリカ攻撃前より、戦争への助走にいても立ったもいられない気持ち抑えがたく始めました。私の行ってる、劇団態変や金満里身体芸術研究所、そして自立生活など私を取り巻く、芸術と政治とを切り離したところではない一つの生き方としての日々の感想、を伝え共感してもらい記録していきたい、との思いで続けております。

 この前のメールで呼びかけさせて頂いた、態変『帰郷-ここが異郷だったのだ』の新作公演に向けたDM発送作業、19日(水)のお昼に無事終わりました。丁度一週間かけ、総数4175通全国へ向け旅立ったと言うことによります。

 この通信の配信先でも大体の方へは届くこととは思いますが、もしも「住所を態変事務所には言ってないわ」という方がおられて、欲しい、と思われる方は一番下の、Officeのイマージュ/劇団態変のEmeil、かこの通信へ、住所と名前その旨を一言添えてくださいませ。

 発送のダイレクトメールにもありましたように、態変の大阪公演が後一ヶ月を切り、近付いてきました。今回の新作のタイトル『帰郷-ここが異郷だったのだ』は、いろいろと物議をかもし出すインパクトがあるようです。このタイトルは谷川俊太郎氏の詩集「六十二のソネット」の中から-帰郷-という詩のタイトルと詩から取らせて頂き、氏の快諾を得作品タイトルに使わせて頂きました。

 この作品について今回は書きたいと思います。

 タイトルへの物議とは、私は韓国でもこのタイトルへの質問をされましたし、日本でも「在日コリアンとしての思いか」との質問を受けました。そして今回、私は自分にとっての新たな、発見をしています。それは本当に、人が持つ故郷的な特定のイメージといったものが、私には全くとしてないということです。

 タイトルがまだ決まらない内に台本の書き出し段階で、故郷、がきっと私にも何かあるに違いないと、台本に向かい始めたのですが、故郷への郷愁めいたものやそれに続く母親への思い(『ウリ・オモニ』でやっちゃってますからね。)といった、湿った感情がどこにも出てこないことに気付き、このタイトルがぴったりと来たのです。

 それは生まれてこの方、訪問という形でしか韓国へは行ってなく、韓国に親戚がいるわけでもないので他の外国へ行くよりは、少しは言葉が出来ると言った程度の差なのだということ。生まれた所でもなく住んだこともないのですから、故郷としての感情が韓国に湧いてくるというのは今の所ほとんどないです。それは韓国での取材でも言わせて貰っています。それへの韓国での反応は、不思議そうにはしていても、理解は早く取材への話は切り替わります。

 もともと私にとっての表現活動とは、寄るすべのない、故郷とか帰属願望というものへの喪失感です。そして今回、その喪失感の行方を、三部作という形で追い物語化したものです。そういう意味で複雑な心理を現す"喪失感"だと思います。

 それはまず私にとって、韓国人というよりも、障害者という現実の方が強くあるのです。物心付く以前に在日として国を奪われ、生まれてからは障害者として、地域を奪われている訳です。それらの喪失感は、今の時代を象徴する戦争へと私の己的体験は繋がっていきます。

 <戦争の時代に生きる>という実感のないところの、しかし確実にある<バーチャルな戦争の現実感>、とでもいう奇妙な体験を無自覚なままさせられている喪失感です。

 私は今、何を表現しどんな声を上げれば、ぴったりときて少しでも先を見れるのか、をひしひしと感じます。そんな帰るところなど何処もなく、唯々もがくことでしか息をつけない溺死寸前の必死さ、の中で生きてみようと腹をくくることしかできません。

 そしてそうすることでようやくも逃げれない今の現実に、まだ先があると思えるようになってきました。

 そこには "人には等しく、故郷のない時代に、生きている" ということです。

 私にとって、戦争とは国家が持てる権力のすべを行使し、他国・者への屈服を勝ち取る物心に渡る、収奪へのエゴ、だと思います。

 これは国家と言う名の下で、個人の権力としての征服欲であり、大量殺人欲の何ものでもないと思います。これを"屈服を勝ち取る物心に渡る、収奪のエゴ" だけとって思うに。いわば、親に全面的な受容でもって受け止められると思い込んで育って来た子供が、自分の思いのままに親を動かそうとだだをこねる集中要求のようなもので、子供は、親にそのとき"駄目"、と空かさず躾けられないとすると、逆に親の屈服を勝ち取ることとなり、親の向こう側にある大きくは世間を舐めることになりかねない。

 現代の世界での戦争は、国家をホームとするぬくぬくする居場所を守りたいエゴでしかなく、個人的な執着とどこが違うのか? 言わば人類の征服欲は、永遠に満足などない、自分を無条件に受け入れてくれる親とそれに繋がる、故郷探しのようだと思います。 

 今の時代としての戦争は、戦争で故郷を失う子供達や難民達を多く産み出し、仕掛ける側は何が何でも仮想の安住の故郷を手に入れようと、なりふり構わず異郷へ居座る。そして双方にとっては、もはや異郷の人しかなく、帰るところもなくなるり大いなる故郷探しの夢想は故郷の喪失で落ち着くのか、と言った感がします。 

 

 作品の話に戻すと、『碧天彷徨』『マハラバ伝説』『帰郷-ここが異郷だったのだ』の連続三部作で、私の伝えたいものが三部作で大きく一つの物語となるり完結する。

 私の今の時代へ伝えないといけないという使命感のような、障害者としての歴史的証人としての作品です。それはひ弱で惨じめで、簡単にひねり殺される存在としての障害者であるし、それはどんなに文明が発展していこうとも変わらない現実としてありそして忘れてはならない→サルから二足歩行の進化を選んだ、ひ弱であるからこそ恐る恐る未踏の地の闇へ、進み出た人間自体の進化の歴史なのではないだろうか、ということです。

 そこを私は立脚点に、忘れない。私にとっての故郷とは、惨じめなひねり殺される存在であり続けること、を"忘れない"ことであると今回解りました。

 戦争の前に立たされた芸術をする人間として、未来へ刻む願い、の責任がある。

 人間だけが持つ喜怒哀楽と愚かなところと優しさと、野生動物が持つ粗野さと生きる本能と、本来はそれら全部としての躍動感を有しているはず人間の真の可能性を、芸術を行う人間はこそを創り出さねばならないと思わせた三部作です。

 私は絶対に、何かを取り戻した、といえるものに最後の『帰郷-ここが異郷だっただ』をしなければと思っています。

04.05.26(水)

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