我が原点としての施設

 

 7〜17才を過ごした、障害児の施設経験を持つ私は、友人にいわせるとサバイバーなのだそうだ。
 サバイバー、生き残り? 生き抜き? 生き勝ち抜いてきた者? いろんな意味合いが含まれるのであろうが、本人にすればどれもあまりありがたくない、一つのレッテルになりかねない、危うさの漂う言葉である。

 しかし私にとって、施設収容体験は確かに大きい。それは私にとって、人間に対する根本的な洞察力として個人と集団心理そして社会、という全てがここから出発しているからだ。それほど施設収容というのは、きつい経験であった。
 施設経験者ではない障害者にとっても、施設の隔離収容は、大きな力を持つ社会を動かす側の論理からは、常に障害者の背後に迫りくる問題だと思う。

 その現実感がまさしく態変の原動力であり、『マハラバ伝説』の作品作りのテーマともなっている。この作品作りの始めにワークショップを行ったり、することで今一度のそのような社会を、相対化する訓練もしてみたりした。そこでも思ったのが、障害者の最も存在の根幹に関わる問題点としての現実、が施設収容にはあるという再確認と同時に、一般の社会で自立という生活を一端始め出す障害者にとっては、施設は過去のこととして片付けたい、というのも確かにあったということである。

 私は芸術家として、施設収容で過ごした7〜17才にこだわらないといけないと思っている。


 

 私が7〜17才を過ごした施設生活は、大人数(100人の子供たち)での集団生活といえる。

 手術という特別なときは一番少ない4人部屋に、一週間だけ移され、他は最軽度の高学年の障害児がいる畳部屋、12人部屋が一つ小部屋が一つ中が一つと三つ・ベットでは10人が一番多い部屋で二つぐらい、多くは8人部屋であった。私は8人部屋であった。
 その施設は大阪市の責任で、中津の済生会病院の分院として作られた施設で、大阪市立中津整枝学院、という。児童施設として建てているので、小さな子で3才で18才までが年齢制限がある。


 

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