部屋は私のいた東からみて、東病棟と西病棟に渡り廊下を挟んで更に間を、職員の事務室や調理場院長室や手術室の居並ぶ棟続きに西がある。という具合に子供の病室は西と東は別れていた。それぞれ4部屋と6部屋が配置されている。
 個人と個人を仕切るカーテンなどなく、部屋のドアを開けると、ベッドが全部一目に入ってくる無味乾燥な病院生活である。そして当時は冷房などなかった時代である。夏などは、大部屋の裏も表も開けっ放しの開放が朝から晩まで続く。そして部屋と部屋の間には、詰所まで部屋が見通せるようにとガラス張りで繋がっている。そのような個人の尊厳やプライバシーなど、とうてい望めない子供の集団生活の中では、いかに人が周りにいても自分の己としての時間を持つか、ということが必要とされてくるのである。そしてプライバシーの最たる排泄、ということが思春期のころには個人的な問題ごとであった。便器や尿器で、自分のベッドから移動せずに排泄する、障害の重度の子供達が多い私の部屋で、みんな慢性的便秘、そして個人の最小の羞恥心といったものを、いかに排泄に伴い確保していくか、を個々人の有り様として目に見えてくるのである。

 そしてそこは、障害を直す、とう大命題が横たわっている。医療的処置が第一義で次ぎに義務教育を施す、ということである。しかしそこでの生活は少したてば、そんなことは大義名分で、確実に隔離収容が目的であることが、子供心にもわかってくる。障害を直す、といっても重度になるほどそのことへの期待からは遠い、という現実である。軽度の歩ける子は医療的処置も生活も、施設側としてはあまりやることがなく、職員は放任である。そして寝た切り重度の子供は、職員の体力や人手不足を理由にベットから移動させられず、訓練室へも教室へも連れていってもらえず、風呂へも入れてもらっていなかった。そして毎日をベットの上で寝かされたままなのである。

 集団生活は規則があり禁止事項が沢山あった。先ず、施設はフェンスで囲われた敷地外へ出ることは禁止、食べ物も施設内で出るもの以外を口にすることは禁止、面会は日曜日の1時〜5時。外泊も月一泊2日。私物は最低限のもの以外は持ち込み禁止。私物には名前を書き特に衣服類には、別布に名前へを消えないように書き、縫い付ける。職員の手を煩わす重度は介護がしやすいように、長髪は禁止でおかっぱ。 
 このような中で、少しでも自力で外へ出られ歩ける子供が、あるとき敷地外へ出ていなくなるということがあり、そのときに職員たちはその子の行為を「脱走」と呼んでいた。そこでの起床・食事・消燈と呼ばれる毎日の生活は、時間の予定規則で管理され規則正しく、時間通りに職員によって生活が廻されていくのである。職員もそれより遅くらせるわけにはならず、職員によっては自分の都合で、重度ほど早くに起こされるのだがそんな職員に限って、冬場は衣服がかさばり時間が掛かると起床を4時半や5時に勝手にし、重度の布団をひっぺ返していくのである。

 私が初めてそこへ入所したときは、「こんなところで、どうして生きていくの」と途方に暮れたのを覚えている。重度で低学年ほど、子供の個人の尊厳が踏みにじられていくのがわかった。しかし子供は馴れていくのも早い。日がたつに連れ順応していくのだ。
 しかし私に限って言えば、職員個人のその日の気分や都合で、規則をねじ伏せ不当に扱わられることへの屈辱感は、馴れるどころか、成長するほどに反感は募っていった。

 

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