部屋は私のいた東からみて、東病棟と西病棟に渡り廊下を挟んで更に間を、職員の事務室や調理場院長室や手術室の居並ぶ棟続きに西がある。という具合に子供の病室は西と東は別れていた。それぞれ4部屋と6部屋が配置されている。 そしてそこは、障害を直す、とう大命題が横たわっている。医療的処置が第一義で次ぎに義務教育を施す、ということである。しかしそこでの生活は少したてば、そんなことは大義名分で、確実に隔離収容が目的であることが、子供心にもわかってくる。障害を直す、といっても重度になるほどそのことへの期待からは遠い、という現実である。軽度の歩ける子は医療的処置も生活も、施設側としてはあまりやることがなく、職員は放任である。そして寝た切り重度の子供は、職員の体力や人手不足を理由にベットから移動させられず、訓練室へも教室へも連れていってもらえず、風呂へも入れてもらっていなかった。そして毎日をベットの上で寝かされたままなのである。 集団生活は規則があり禁止事項が沢山あった。先ず、施設はフェンスで囲われた敷地外へ出ることは禁止、食べ物も施設内で出るもの以外を口にすることは禁止、面会は日曜日の1時〜5時。外泊も月一泊2日。私物は最低限のもの以外は持ち込み禁止。私物には名前を書き特に衣服類には、別布に名前へを消えないように書き、縫い付ける。職員の手を煩わす重度は介護がしやすいように、長髪は禁止でおかっぱ。 私が初めてそこへ入所したときは、「こんなところで、どうして生きていくの」と途方に暮れたのを覚えている。重度で低学年ほど、子供の個人の尊厳が踏みにじられていくのがわかった。しかし子供は馴れていくのも早い。日がたつに連れ順応していくのだ。
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