10年間の施設生活の中で、間接的にであるが、看護の面での手抜きで命を落していった、同じ部屋の友達は3人にのぼる。しかしそういった場面はいきなりやってくるのではないし、本人もどうしょうもなくずるずると悪いほうへと引っ張られていく。 こんなことがあった。私は始めから気になっていた、無口な黒い瞳で浅黒い皮膚で黒い髪の女の子が入ってきた。普段車椅子なんか乗らない内気な子であったが、車椅子へ乗せてもらい、自力で漕ぎだして運悪く危ないところへ行ってしまい、そのまま車椅子から落ちてしまった。そのことが切っ掛けでその子は寝た切りとなってしまい、どんどんもっとものを言わなくなるのである。ベットに仰向けに寝かされ天井だけを見詰め、食事も食べさせてもらい、するうちにその子から反応が一つづつ消えていくのである。私はそんな彼女がたまらず、何を考えそうしているか、やって欲しいことはないのか、もっと言わないとしまいにあんたは駄目になる、と良く聞きただしていた。しかし彼女からの返事は、いつも首を横に振ることだけ。そしていつの間にか彼女からの反応はなくなって、彼女は他の病院へ移されていった。 これは始めは、車椅子に初めて乗った子に大人が誰も横に付かずに放ってしまった、という一つの小さな事件からである。本人としての声を上げられなかったのか、そんなものは始めから彼女にはなかったのかは私にはわからないが、確実に良い方にやろうというのが見えないまま、なされるままの受け身で車椅子からの転落事故までに、いっきに発展する。 そんな事態の悪化を生み、本人も改善できないままそれに対し、どうすることもできない自分がいて、現実的には私もそれに同調し加担していったとも思えるのである。〈これは私の本「生きることのはじまり」(筑摩書房プリマブックス)でも、もっと詳しく書いているが〉 彼女は、奄美の出身で親と共に本土へ渡ってきて、下に姉妹の沢山いる長女であった。両親は貧しく働きづめなのか、面会には父が一度ぐらい来ただけで後は、彼女には下の姉妹が沢山面会には来ていた。がそれも徐々に下の姉妹達も来なくなり、彼女は変化していった。当時の沖縄・奄美の本土への流出は、日本の戦後を一身に背負わされた結果の、民の貧しさゆえである。自分達の家族に襲いかかる変化に、やはり彼女は障害者として長女であっても何もできない、といった途方に暮れるしかなかったのだろうと思う。無口であったのも方言で通じない、と思っていたのかもしれない。 しかし如何なる理由にしても、私には理解できない。なぜそんなにして自分の障害を卑下していくのか。なぜ自ら自らの存在を諦め貶めていくのか。子供心としても、絶対に諦めてはいけないし、障害が軽度でも重度でも、それが卑下の対象とはならない、という悔しさをこの人の分までも私は舐める思いであった。そして彼女は、みんなの前から忽然と消えていなくなった。多分、死んだのだろう。
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