劇団態変 旗揚げ公演
色は臭へど
劇評
在日韓国人の金満里さんと東京公演前にインタビューしている。 ―世の中とは、隠れた裏の世界、つまり海底の奥深く、生物も何もないとされる世界にも、実は生物が生まれ出てくる。生の営みを織りなしている世の中には生きていてもあまりよく思われていない人々、なんやこんなところにおるのか、電車や町の中でみられている人々。それが私達です。普通に生きていたら見えない世界、きりすてられた世界を、違う価値観でみたらどうなるか。私達には私達だけの価値観力がある。普通の場所で切り捨てられる分だけ、私達は主観を好き放題広げる。それが海底のイメージであり、胎内の羊水のイメージでもあるんです。きたない者も、きれいなものも生まれてくる。誰がとめようにも、とめられない。私達は脳性小児麻痺、背ずいカリエス、小児麻痺などにかかったのですが、身体の不自由さは特性だと思っている。ハンデだとは思わない。この私達の特性で表現したい。理論や言葉で補うのではなく、全体表現としてやりたい。でも、私達のやっている事が演劇といわれていいのかわからない。せりふもアドリブだし、地のまんま舞台に出ているのですから。 不自由さを負った肉体の引用であり、不自由さの背景の引用でもある。その引用の手つきに、どれほどの演劇的だくらみがあるか。根拠と方法意識があるか。不自由さを、豊かなる不自由さにどう反転していくか、課題は多いようだが、一瞬とはいえ最後の晩さんの舞踊シーンなどになると異様な美しさのある衝迫力が出てきたのには感動した。あれはまさしく「演劇」が発生していた。 山本健一(「新劇」1984年7月号より抜粋) |
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小児麻痺者ら重度の身体障害者だけで作っている大阪の劇団「態変」の東京・タイニイアリス公演、金満里作・演出『色は臭へど』も、全体としてみれば粗雑だったが、ハッとするような舞踊シーンがあった。出演者四、五人が正装してディナーをとるシーンだった。タキシードを着て車椅子にのった男性が、西ドイツのロック音楽タンゴのリズムにのって、踊り始めた。回転と左右への動きを、電動車椅子を巧みに使い、軽やかに舞う。暗い照明とあいまって、一種異様な官能がたちのぼる。この舞踊シーンには前段があり、やはり身障者の女性が舞台中央にベッタリ座り、おままごとの様に、野菜サラダの材料を作っている。やおら客席の男性を舞台に呼んで、料理の手伝いをしてもらいながら、会話をかわす。役に立たないとわかると、あるいは会話がとぎれると「もういいわ」と、客席に帰してしまう。見様によっては彼女の結婚願望、家庭願望の様にもみれるシーンだった。おままごとの様なつかの間の家庭での時間。それが暗転して、"最後の晩さん"風のディナーへ転換するのだ。ラストも、感動的だった。…
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