表現する徹底非暴力の反戦通信11●7/12、許可を取っていた東淀川警察から朝電話、「雨でもデモやりますか?」に「ハイハイ、やりすよ。」の返し。1時きっかり、この日一回目と同じく先頭に福森・川喜多横断幕、次に箕面チャンゴの会のプンムルで景気良くデモ、出発。そしてメタに入り、私の簡単な挨拶でヨロカジの「サムルノリ」で始る。太田さんの3時講演まで、パフォーマンスが続く。/昼3時〜5時過ぎぐらいまで太田さんの講演、後討論会からそのまま会費制飲み会に移り、かなりみんな電車の最終に合せた形で遅くまで、三々五々に話し尽きるまでいて帰っていく。太田さんもその日の宿の福森の住宅へ福森の車で11時頃か。/最後に残ったのはこちらのスタッフ数名と仙城さん私、役者井上、三澤君。三澤君は討論での自分の意見が不本意な捉えられ方で、憤慨しきり。残りのビールや食べ物をさらえながら、なだめたり火を着けたり、と我々も相手しながら片付けながらの話し。12半過ぎに大体事務所出る。 討論事態やはり今の日本の世相を反映するもので、論議は散漫になりがちではあったが、それはそれぞれがそれぞれに今の状況への打開策を模索している、苦悶の姿であったと思う。世代や男女や障害者健常者の状況を踏まえそして越え、今の私達には、じっくりと互いに向合う時間が先ず必要なのだ、ということだと思う。 大変な粘りと根気ではあるが、皆さんのこれからも各場での"あきらめない!"の気持を、伝え聞く、といった対話の展開が必要なんだろうと思う。
●7/13 朝10時/ ダルマ・ブダヤの楽器トラックにて搬入、メタ入り。 私は12時ぐらいに、事務所入り。そのままメタへ直行で、ガムランの山崎さんとこちらの役者即興の打ち合わせ。 1時開始/ そんなに来ない、と思い気や何と嬉しいことに、ぞくぞくと人が入って来てくれ、ガムランのメンバーは13人。スペースとしては全体の四分の三がガムランでしめて、他30名強の参加者と詰め詰めのメタ空間となる。 ガムランの音楽はアルファー波の充満で、頭も身体もしっかりと共鳴し骨が自由に浮游し、氣が流れるは流れるは。私は、ろれつが回らなくなるほどに、すっかりと左脳が開放状態。ワークショップも初めて触る人で、最後は驚くほどに曲になっていて、山崎さんは青くなる、との事。間に、スタッフ達が手作りインドネシア料理で販売も上階での休憩を長く40分取る。 ガムランで日長一日を食べたりお昼寝したりで過ごす、そんな日本の日常の時空とは違う空間を創りだすことで、日本にいながらいろんな国の文化や空気を感じられ違った国の社会へ思いを馳せることができるのでは、での二日目の企画。今の日本の疲れに、異文化を受け入れる、心身の下準備として。ダルマさんには今回、インドネシアの社会状況を話す時間も間にいれて貰い、私達をいろんな角度から少しづつ現実の日常から遊離しないで、ほぐして知る、のに多いに手助けして頂いた。 食事休憩後に、絵本朗読 古橋理絵/ 『ななしのごんべさん』田島征彦&吉村敬子作(スライド)/++迫力のある大きなスクリーンでのスライドの絵と、非常に間の取り方や声の調子など、自然体でいて説得力のある良い朗読であった。参加の小さな子供達は見入っていた。そして終わった後は、子供達の可愛い夕方寝であった。音楽はくさんまさたか(ディジュドゥリドゥ)の後、飛び入り出演者有り。一回目は公成と来てくれた元「誰がカバやねん、ロックンロールショー」のダンシング義隆、が殴り込みロックンロールでギタリストと共に参加。何と私は、誰カバの人とは一回目には気が付かずにいたが、実は結構中学生の施設時代テレビで見ていて(ヤング・オーオーですか?)、この誰カバのふざけボーカルのファンだったのである。その頃、テレビ見ながら何の根拠もなく「絶対に、この人と会える。」と心密かに確信していた人の変わり果てた姿(?)だったとは・・・終わった後に気が付いた。 そして猫の額ほどの狭い空間での、態変役者福森・井上のパフォーマンス。で、5時半か6時。ガムランの搬出で、一番大きな精霊の宿る(全部の楽器に有りそうだが)ドラに別れを惜しみ、皆さんは帰っていかれた。 これも、もうこちらの面々だけが残ってもやろうと考えていた、アメリカのイラク攻撃から広島までを題材とした、三澤奈央氏による「縛るもの」30分のパフォーマンスで全て終了。 今回は2日間に渡って行う、第二回目とした。それはきっちりと話をして貰い意見の交換もしたいという、講演会と討論・交流会を持っていきたかったからである。それでいて、頭でっかちにならずに身体から「どうやねん」と、よりしなやかな思考と方法として、各自にとって「現場でまた頑張ろう、」と思えるものにしたかったからである。そして、イラク写真展や絵画・墨絵・オブジェと展示物も揃い、観に来たり立ち寄ったりと大変な賑わいで、私達も嬉しい悲鳴であった。終わった翌日、事務所の向いのおじさんは川喜多に「2日間、お祭りだったね」との声掛けがあったとのこと。 今回の反戦の賑わいは、当初私として危ぐしていたデモへの大きな反発、どころか、前回よりもにこやかな顔も見たような気がして、それなりにこの企画が地域に根付いてきた、という手応えは確かにあった。態変流の、方法を模索しながらも常に、この日本の状況に問題の投げ掛けとなる緊張感、を創りだす渦としての=コミュニティー、を創造と破壊自体を恐れず問題にしていける、人と人との繋がる緩やかで強靱なネットワークである。そんなものとして続けて行ければ、とようやく今日になって整理できていきかな、という感じである。 参加の皆さんも参加でない皆さんも、私にとって今回の企画は、今の世界の中での日本は、想像以上に危険な所へ引きづられるのは早いかも知れない、というのを実感した太田さんの講演会と討論会でした。秋から冬に掛けての、日本の政治の動きと世界情勢は、やはり気を抜くものでないな、と思います。より、叡知を!!! 03.7.15
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表現する徹底非暴力の反戦通信12残暑見舞いも、季節的にはまだいけるのでしょうか。 何だかいつまでも梅雨のような、でももう秋の気配さえする異常気象ですが、皆さんはいかがお過ごしですか? ●今年の8月は、歴史に無知な私がこの反戦の企画でようやく、6日の広島原爆投下、9日に長崎への二つ目の原爆投下、そして15日に敗戦の布告宣言、というのがやっと入ってきた。これまで私にとっての15日とは、死者を弔うお盆でしかなかった。朝鮮の習わしで大切な法事があるからである。 しかし昨年の6月23日に、沖縄が戦場となった日として、敗戦後ずっと沖縄では慰霊の日に当て慰霊祭が模様されているのに、初めて訪れてみた。どこへ行けばいいか沖縄の人に聞いてみても、今は沖縄の慰霊の日の反戦側の企画が分裂してきていて、こことお勧めできるところはないなぁー、とのことで私の趣味ではなくても一度は一応公式な官制の行う式典の方へ行ってみてもいい、と思っていたので行ってみた、というのがあり、これが実際には大きかった。 実際に自分の身体を動かし、やはりそのような戦争の死者への追悼の場へ行ったこと。そしてそこで、きっちりと小泉首相の来沖・式典参加に、沖縄の議員が怒声を投げつけていたのを聞いたり、おばあやおじいが若いひ孫ぐらいに手を引かれ沢山参列に来ていたり、と沖縄の戦後はやはり終わってなく沢山の犠牲者は何だったのか、の答えは出ていない現実を感じた。 ●そしてようやく今年になって、昨年の6月23日の沖縄が広島・長崎と繋がってきた。6月23日からずっと闘いの場として8月15日が来ても、沖縄ではまだで9月10月まで、潜んでいた日本兵によって、米軍が沖縄で作った収容所に忍び込み、スパイ容疑だと皆殺しにした、というのもあり沖縄では8月15日でもまだ戦争は終わらなかったということが、近年判明し問題とされつつある。日本での戦場としての犠牲は、息が詰まるほどの、戦後も含めての長い戦争に耐えてきているのだ。 戦場として全ての土地に爆弾を打ち込まれ続けた、沖縄の長い時間は想像できない。勿論、何となくは歴史とは頭には入っている。しかし実際には自分の実感としては、私は日本の敗戦に対し、そして韓国の解放の日に対しても、どちらにも何の感情も湧かなかった、というのを白状する。 ●だから、広島のアメリカによる原爆投下へも、はっきりいって日本の侵略への報復として思え、日本が悲惨な目に会うことに、余り同情的な感情にはなれなく、広島の原爆ということに関しても、私の感情はずっと曖昧ではっきりしないものがあった。 ●沖縄に関しては、完全な被害者として在日コリアンと同じく、異民族であるから戦場にされた、という酷さとしての理解は実感とできるところはある。が、広島や長崎となると、私はお手上げであった。 しかし、来年の8月6日は広島の慰霊祭へ行ってみないといけない、と思っている。 現地へ行き、今も消えないそしてずっと消えない、人の深い哀しみは、その同じ時のその土地で、今を生きる人と見えない死者との間に介在するところへと行かないと、解る術もないのかも知れないと。 そしてイラクでのアメリカの行った戦争の酷い被害は、日本の2つの原爆での被爆二世三世として、今も続いている被爆被害と重なってくるのである。そこで始めて私にとっての広島・長崎が引き寄せられ、新たな朝鮮半島と日本という戦争を介しての過去としても、ようやく今が見えてくる思いである。 03.8.18
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表現する徹底非暴力の反戦通信13 (1)長くなりました。4つに分けてゆっくりと読んでみて下さい。 9月20日の「表現する徹底非暴力の反戦3」が終わり、小さいメタモルホールでも凄く大きな社会的意義深い、今回の企画となったのではと思います。 そして今回の作品(『碧天彷徨』)作りにも関係はないとはいえない、今の時代を的確に捉える片鱗を映す鏡とできたのではないかと思います。 やはり、今回の「碧天彷徨」のマスコミ取材を受けている中でも取材の最後には必ずと言っていいほど、この「表現する徹底非暴力の反戦」企画へ、記者の方から「参加できなくて済みません」との声が聞かれます。 やはりマスメディアにとってこの企画は、マスメディアとしての使命を肩代わりしているものとして、気になりながら手を付けられていない自責の念、もこめた感情で見守っているようです。 先日の22日も「碧天彷徨」の取材が済み、少し雑談をしていた日経の記者から、「ブッシュ政権も来年の米国大統領選では、国民の支持が下がっている中、再選はかなり無いのではないか、と言われる状況下で、日本の小泉政権は安倍なんかを表に出しこれからまだまだブッシュへ尻尾ふっての後追いムードしかないというのは、本当にどうするんでしょうか、と思います。 軍事産業で回っている米国経済は、何処かでいつも戦争をしてないと済まない、もう戦争を辞められない国、になって常に血に飢えている。日本も、米国追随での軍事産業に手を出してしまったら、日本の経済事態の根底が揺らぎ、米国と同じような戦争無しには回っていかない道を辿ることになる。絶対にそんな方向へ日本を行かしては駄目なんですよね。」 と、私からの質問へ、個人の意見としての感想ですが、と前置きしながら日経の記者は漏らしていました。そして「日経としては、これまで若年層に対し、余りにも数の数値での評価を図るやり方をし過ぎてきた、と言う反省には立ってきています。」とのことも。<もっと数値だけでなく、考えという思想・哲学といった理念も伝えていかないといけない>ということに内部では問題意識の立て方をしているそうです。 そして24日の取材の際の毎日新聞の記者は、「9月20日の報告をお願いします」と態変ホームページへの掲載を待つ声があり。当日の参加者達の反応や意見を気にしている模様で、やはりマスコミの情報の自主規制はあかんのと違うか? の市民の声を聞きたがっているように思います。
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表現する徹底非暴力の反戦通信13(2)■講演とシンポジウムでさぐる「未来志向の日本・韓国・在日コリアの関係」 【日時】2003年 9月20日(土) 【内容】 ●シンポジウム「未来志向の日本・韓国・在日コリアの関係」 質疑応答&対話 ------------ 自分の公演、間近にアホちゃうか? と言われつつの上記の企画、無事に終わりました。東京の加藤さんもこのメールでの呼び掛けで駆け付けてくれ(たまたま大阪で仕事とのことで)、何と、小さい態変稽古場はひな壇の客席と椅子とに並んだ参加者28人もの人が駆け付けて下さいました。 4時過ぎから始り8時半近くまでやっていたという、何ともいやはや、の会でした。 青柳優子さんの講演会は、 30代40代が民主化闘争を担って来て、12月にあった今のノ・ムヒョン韓国大統領を選出したのもその世代。北朝鮮との政策を、平和と対話、路線で絶対に戦争は避けたい。そして米国との協調と一線、のバランスを引きながら韓国民としての独自路線を模索する、韓国民衆が主体となる国政を選んだということになる。今、韓国は自括りよりも、主体種義を自からの手で勝ち取ったという自信に満ち溢れ、'85年代の暗さとは打って変わって韓国人の明るさと勢いで、とても変化しようとしている。そして日本にこの5月に帰ることとなって驚いていることに、日本はそれと正反対にとても息苦しく暗くなってきているのではないか、と言う感想を強くしている。 北川れんこちゃんは、殆どパネラーとしては何を話したのだろう? ゴメン! 覚えていない。れんこちゃん、簡単な纏めここに下さい。 私は、私が態変を立ち上げる前に、社会的な立場としての運動から始めそれは障害者運動であった。世の中に当たり前に障害者が自立すると言う概念自体の無い時代に、街中に車椅子で出ること事態が許されない公然と駅員などが「人の迷惑を考えろ」と言って憚らない差別の社会通念を、「それはおかしい」と喧嘩しながら変えてきた。しかし在日コリアンとしては、そう言った差別が今まで、私の上には見えにくいことであった。しかし、イラクへの米国の戦争以来、日本はどう進むのか、を考える時に韓国との関係と私達在日コリアンの立場はこれからどうなるのか、と考えるようになりようやく在日コリアンが日本社会へ物言わない状態ではいけないと、はっきりと意識し出している。 そして、私は在日コリアン二世として親である一世との確執は逃れがたくあり、これは在日の人達全てに言えることだと思う。それは、日本の侵略戦争のまっただ中での酷い状況をもろに受け、日本に渡ってきた在日コリアン一世達は日本に住み、生き延びてきた。子を生み育てる為の生活するだけで精一杯な状態で、二世である子に語る事もできなかったというところであろう。 私達二世に対して、一世としての自分が日本にどう扱われ何をされてきたか、を客観視し整理付けし言語化するだけの相対化する力を持てなかった、と言うのが現状ではなかったかと思う。しかし、その一世の語れない言葉にならない思いを受け継ぎ語っていくというか表現していくことを、私達二世・三世が引き受けなければ私達在日コリアンの未来はないのであろう、と感じるようになってきた。 そして又私の二世としてのメンタリティーを、考え言語として表現することも非常に必要と思う。最近、私は認めるところとして、祖国を韓国とし日本を故郷とする、私の二世としての在日コリアンの実感である。日本と分けがたく今の在日は、深く日常を日本に根ざしている。その中で、日本人との結婚も増え、そのような戸籍上ではなくハーフも数えると、潜在的在日コリアンの数はおそらく凄く増えていると私は思う。日本人と分けがたく生活を共にするようになってきている私達在日コリアンにとって、自分の立場をしっかりと意識し言うということは、日本人との意識のギャップに気づくことになり、日本人がきっちりと歴史的な事実も教えられ引き受けたところで考えられるようにならない限り、在日コリアンの気持を話しても、歴史から紐解き今の日本にある在日コリアン差別を話せるような力技をこちらに求められる。 そんな力技に自信は誰もなく、中地半端に話しても通じなく日本人には理解されなくどうせ裏切られるのが目に見えている。ということで私達在日コリアンは無意識のうちに、話すことを控えている。在日コリアンにとって、日本人が隣人として近くなればなるほど、理解されなく裏切られることが恐くなるのだ。 しかし、これからはもっと言っていかないと、この故郷といえる日本の愛する日本人がどういう道を選ぶのかは、私達在日コリアンの問題としてもあるのではないか、ということにようやく私自身、気付きだしたところ。 日本国憲法の素晴らしさに気付き、外国人としても人としての当然の権利はあるのだから、国政に選挙という形で一票を投じる権利はある、と信じていた私の中学生の頃。しかしそれは、外国人を理由に選挙権は無い、というのを知り酷くショックであった。今思うのは、日本が侵略戦争をしたことへの反省が真にあるのなら、その結果として日本に多く住み、日本に骨を埋めるであろう在日コリアンや戦争での強制連行を行った国の日本に住む子孫へは、絶対に選挙権を地方も国政もそして被選挙権も含め認めるべきであろう。段階ごとにでもとにかく早く日本は、第二次世界大戦の侵略戦争の反省での、在日コリアン及び侵略国の侵略時から日本へ住む外国人の人々へ早急に選挙権を権利と認めるべきだ、と私は考える。
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表現する徹底非暴力の反戦通信13(3)討論に入り、参加者からは質問は青柳さんへ、韓国の民主化の闘いの時代的な説明が欲しいというのがあり、青柳さんから85年前後の歴史的流れの説明がありました。そして他に質問や意見は中々出ず、いつもこの企画で私が感じることですが、討論になると質問者が何をどの方向で言いたいのかが見えにくく、方向があっちに向いたりこっちに向いたりと、何を目的としているのかが取りにくく揚げ足取りにしかなってないような無駄な質問も多いですね。そんなに日常的に論議を重ね話をする機会がないんだな、と思わせることが多いです。 もっと悪く言うと、何でも良いから只自分のことを聞いて欲しいだけなのか? の発言が非常に多いです。これは司会の力量にもよるものは大でしょうが・・・(済みません、私でした。) 同じところをぐるぐる廻るのは、いい加減に止めて、何か答えを出せる論議としていきたいと、今回はつくづく思いました。そしてこんな討論会では、皆早くに意見を出し、他の人の意見の繋げる努力が欲しいものだ、と討論に馴れないといけないな、とも思います。それでもこのような講演会+シンポ討論会というものが、在日コリアンにも日本人にも待たれていた、というのは充分に解る会となりましたが。 全体としての反応での私が印象に残ったのは、 きっと討論が期待と反していたのでしょう-自らも戦場へ行った、という戦争を知る者として今の時代への危機感、をおっしゃって、この会は面白くない-と言って、終わりの方に少し早く帰られた、おじいちゃん。 -拉致事件の発覚が起きて以来、暗たんたる気持で一時も心休まる時間が無く過ごしてきた。しかし今日、この場所で皆さんの話を聞いていると、ここは一番何があっても安全な場所だと思えた。この場に来て本当に良かった、感謝です-と手を合せておられた70才ぐらいの在日コリアンのハラボジ(=朝鮮語で「おじいさん」)。 その人の友人の話として言われた-「80才になる友人は、拉致事件の後直ぐに自分の家の、自分の本名で書いてある自分の表札だけを、自分の手で外した。という話しを聞いて何とも言えない気持になった。」-と言う話しもありました。
実は私も何を隠そう、この事件が発表されたときに、全くこの話の中のハラボジと同じ気持になった、のを思い出しました。そして、この企画の動機となったことも。その時、<私の他にも絶対に、そのような気持にさせられている、在日コリアンは多くいるはずだ。何か声を出し発信せねば。>という、危機感に近い感情であったことを思いだしました。この発言を聞いて、居ても立ってもいられない気持はやはりこの一世の上にのしかかっているのを知り、同じ在日コリアン二世の私に、とても痛さの伴うじくじたる思いで後々尾を引き残るものでした。 このハラボジの発言の持つ、日本の国と日本人に対する問い掛けは、とても大きいと思います。 5才で親に連れられ日本に来たというこのハラボジは、阪神教育闘争の折りにアメリカ軍の発砲で死んだ学童(「金君」と呼んでおられたが)の「金君」の真横にいた、という生粋の在日の戦後民族教育の闘いをされてきた人のようです。当時の日本の植民地支配の中で日本に来て、日本に住むことを余儀なくされ苦労を重ね高齢となった一世です。 日本側が作り出した歴史に翻弄されながら年老いて、今の時代に又もや日本社会に脅えなければならない、という今の日本の時代とは何なのか。と本当に、捨てられた民としての在日コリアンを思い、私は情け無くなる気持で聞いていました。 ようやく最後になり、パネラーの社民党の衆議委員のれんこちゃんからも、今の国会議委員の93%は、憲法第九条は変える、のアンケート調査結果が新聞で発表されたにも関わらず国民の殆どは、この事態に気付いていない。そして有事立法成立が一番大きな憲法九条を無きものとさせる法律であったにも関わらず、国民からは何の声も上がらない。そしてこの5月に易々と、国会では有事立法が通ってしまい、今や外国からは日本は戦争をしたい国、そしてその内公然と軍隊を持ち核武装も当然するであろう国、として完全に目されている現実。というものが出され、私からも-この段に及んでもまだ龍著に呑ん気に、本音を戦わすというのが解らん云々、の論議を交わしている場合ではないであろう-と事態の緊迫さを言うハメになりました。
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表現する徹底非暴力の反戦通信13(4)しかし、この間も韓国のテレビ局が日本へ来て、生野での在日コリアンの討論会を取材して帰ったと新聞などに報じられていました。今日本で必要なのは、このような世論が動くような民意にかなった広範な討論の場であり、そのようなマスコミの動きではないかと思います。皆話したがっています。論議をしたがっています。民間での、時間無制限一本勝負、話せば解り合える、のような論理の構築を徹底的にやり、異質な意見を直接知る場がもっと今の日本には必要だと思います。 第2期小泉内閣は茶番劇で発足し、それも酷い日本のタカ派の安倍が、たかだか自民の幹事長だというに、いつの間にか「日本人の大人気者」のイメージ戦略としてマスコミを賑わせている始末です。日本人は自分達の戦争への準備にもっと自覚的にならないと、金だけでは米国はもの足らず、その内韓国のように徴兵制で日本に無駄死にをアメリカ人に代わってやらせる事を、狙うでしょうね。そして世界中からは今、日本へは<米国と手に手をとり、戦争仕掛けにあっちこっちの国に出かける、戦争やる気満々の油断ならない国>と見なされてきているのです。米国の戦争産業で手を汚し止めるに辞められなくなっている米国並の、ほんの一握りのリッチさなんていらないのです。リッチさは庶民にはないでしょうし、そんなリッチさよりも、話ができるいろんな人が生きあう関係性の、分かち合う貧乏を選びたいです。 10月に入ってからの衆議院解散後の、次の11月3日と言われている、衆議院選挙は、日本の今後の運命が数として出る、本当にえらい大切な選挙となります。日本は米国と共に世界中からの嫌われ者として戦争したい国となるのか。戦争に行きたいか、行きたくないか。人を殺したいか、殺したくないか。日本の平和憲法九条を本当に捨ててしまうのかどうか。この憲法を絶対に守り通さねばならない、意思表示の時です。でないとこれまでの戦争の反省としての、人類の叡知が死に瀕してしまいます。
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表現する徹底非暴力の反戦通信14私自身、9月20日の講演+シンポ+討論、で何か釈然としない気持をずっと引きずっていて、考えていました。そして昨日、在日コリアン三世と話していて、ようやく何か答えのようなものが出てきて、すっきりとしてきました。 パネラーとして20分間のスピーチを行っていたときの、違和感の出所を、今になってようやく整理すると。 私はその日に、生れて初めて在日コリアンとしての発言を世にした、ということになります。その実感として、障害者、として社会に物申すときの感情と、在日朝鮮人(私の自分を捉える、原点としての呼び方はこちら。)として発言をするときの私の感情として、全然異質な感情があるということです。 それは障害者として世に向って言うときにの私は一片のカケラも、惨めさや卑下は一切感じたことはないのに比べて、在日朝鮮人として発言するときのあの時の感情といったら、何か惨めさに通じるものを払拭できずにいたからです。 これは非常大事な、日本人と在日コリアンの間にはだかる問題ではないかと思います。 話していたときの主張とは裏腹に、目の前にしている現実的に多くの日本人にとって、日本の侵略の歴史云々は空虚なものでしかない(大半の日本の人々は知らない、というところから来るもの。)。話していて、大きな権力に対して一人で立たされているような、恐さでした。それは、亡くなった友人、伊藤ルイさん(関東大震災時の民間人が行った朝鮮人大虐殺の際、日本の憲兵に暗殺されたアナーキストの大杉栄・伊藤野枝夫婦の残された子)が話されていた中に<「天皇に弓射る子」と目さ れることの恐ろしさ>と言う言葉を聞いたことがあるのですが、ああ・・・この感情か・・・と言ったものでした。 一番の感情はこの"恐怖感"だっと思います。それはやはり在日コリアンが公的な場で発言することは、大なり小なり絶対的な日本国という権力と直接向きあうことになる、ということなのだと思いました。 障害者としての発言とは、全然質が違うものだと思います。それはやはりヒューマニズムだけでは済まない、ポリティカルな存在とならざるるを得ない、という事への自覚、のようなものです。 その一つ、 自分の行動や言動によって、社会を担う一人の人間として期待されていたり見下されていたり、といった"責任"というものが<尊敬か、見捨てられる>かといったものとして完全に受け手の相手にゆねばならない、どう受け止められるか、が自分の生死にまで関わる社会的な責任の発言をしている、と言う実感でした。しかもその実態は、目の前の人達ではなく、日本国の権力にとって、一般市民に気付かれたくない事をわざわざ言う、都合の悪い奴、でしかないことに基因する漠然とした、しかし確実な"恐怖"感だと思います。 それを引き受ける認識に立った上でしか、在日コリアンとしては、公然と意見の主張をすることはできない立場だということです。現に私は今回で話す事自体も、そのことへの、ある種の覚悟を要しました。そしてそのようなことへ如何に無自覚か、ということは、日本に住んでいる以上、一度自分が引き受けてやって見ないと解らないことで、ある意味堂々めぐりをしていても仕方がないと、今回は敢えて私は在日コリアンとしての立場を引き受けました。恐怖感は、話している時には確かなものとして感じましたが、後は返って言ってしまうことでスッキリした事も確かです。 そして二つめ、 ハラボジの発言にもあったように、日本人の意識性にゆだねばならないいわゆる「弱み」の様な感情はどこから来るのか、ということです。これは全く、日本人が歴史のおさえをこれまで教育としてやってこなかった原罪を唯々一方的に在日コリアンに背負わせてきたという、二重の意味での侵略と同化政策が今も日本は在日に対して行っている結果でしかありません。精神構造としての、侵略された相手国を住み処として選んだ者の、棄民としての意識性だとすれば、それは余りにも悲しいことではないかという気がします。しかし、ハラボジの発言は、そういう意味だけではなかったと思います。本当に手に手を取りあえる、日本人と在日コリアンとの共通の生き方を模索することは可能なんだと思えた、ということではないでしょうか。 青柳優子さんからも、今後にとっていろいろと感じることの多い意義深い集りだった、というメールをいただきました。このような日本と韓国の架け橋となる日本人から、貴重な日本を変える一石は始まるのではないか、と思います。私も、本当に日本という国を変えたい、と思うし、変わると信じるので。 03.9.27
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表現する徹底非暴力の反戦通信15古くからの友人でシンガーソングライターで私達の間では人気を博した、在日コリアン2世のホン・ヨンウンが10月9日に急死しました。末期癌と判明して、あっという間の旅立ちでした。彼の歌は在日コリアン2世の、気負わない素直な心を歌にのせ直接的では決してなくても、1世から受け継ぐハングリーさをも表現していた、2世としての感性のロックンローラーでした。 実は私の企画した9月20日の【講演とシンポジウムでさぐる「未来志向の日本・韓国・在日コリアの関係」】で、是非皆に彼の歌を聴いて欲しいと考え、歌って欲しいという手紙をヨンウンに送っていたところでした。転居と入院中で、その手紙は届かず今、私の手共に返されたままです。 彼は共和国の民族学校を高校まで行き、学校生活まではサッカーの名ゴールキーパとして鳴らします。しかし卒業後の進路の無さに愕然とし、方向を見失っていたときに歌と出合って作り歌うようになったといいます。 彼の歌の中に「もしも、一つになったなら・・・」という歌詞が繰り返し出てくる歌があります。彼は一番上のお姉さんが北朝鮮へ一人帰った、という離散家族として親に代わり、姉への思いをも持ち続け表現してきた人でした。今の時代にこそ必要となってきた、ヨンウンの歌なのではないか、と最近彼の歌を繰り返し思い出し良く口ずさんでいたところに届いた訃報です。早すぎるホンヨンウンの旅立ちに、今度は何を彼の残された、幼すぎる子供3人が受け取るのか・・・ 私達の問い掛けは、まだまだ形として成せていないと、つくづく思います。もう直ぐ態変「碧天彷徨」東京公演です。私なりの問い掛けをもって、投げ掛けに参りたいと思います。 03.10.25
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