観客パンフ 芸術監督挨拶
私が長年追い求めていた一つの世界観を、この『ルンタ(風の馬)〜いい風よ吹け〜』で表現できる時期にきたと感じている。
それは、人間の身体自体に備わっている、宇宙との連動、というものだ。
小宇宙としての身体と大宇宙は、名こそ小や大といった上下関係のようだが、実はもっと対等に並列にある、生かし合うも殺し合うも双方に深く関わる運命共同体だ。それは、予定調和としてプログラムされたのでも、単なる偶然に誘発された気まぐれでもない、エネルギーの傾け方しだいで決まる運命を共有している。
そこでは、抜き差しならない、一瞬一瞬の薄氷を踏むような真剣さで、負けは有り得ない、諦めない不屈さ、が決め手になる。
宇宙と人類は、いい方向で活かし合う信じる力、でしかないのだ。
宇宙全体は一つの生命体、という見方がある。そこでは、人間の存在は、その小さな一つの細胞を宰っている。悪い細胞なのか、良い細胞なのか。悪いものも飲み込んで、益に変えてしまう自浄する力を備えると、それが、願い行動する命の源泉だ。
大きなサイクルを生みいい循環をルンタは希望している。
宇宙を越え、もっと外側に更なる宇宙の外が広がる、外宇宙へと、いい風は突き進んで吹いて行く。
2014.10.11 金滿里
シーンタイトル イメージ詩
1. ガラガラと
ガラガラと混沌が遊ぶ 地と天をひっくり返し
宇宙の惑星の小さな輪ここにあり 関わりなく それぞれに又恐ろしく エゴを隠し持ち
混沌は 砂時計
一方向へ流れ また揺り戻されては返す 翻弄のままに
一筋の緊迫 を 刻み 唯唯 積もる 積もり行く 波
硬質と軟質を併せ持つ 溶かして 固める 大地の 息吹
作為として 人は生きる 価値あり 大地と天に 突き立てる 人柱として
腐ちる 我が身 生きながらにして 腐敗臭 を纏い
優雅に無念に 恨みを込め 全てを溶かし 地球が 堕ちる
意志の種子 ふわふわと 縦横無尽に浮遊し 重力が有るはずもなく さ迷い狂う
無尽蔵の 未だ形成されぬ 目にも見えぬ 唯唯無機質に
圧倒的な 孤独 を 提げる 粒
塵にもならない 素
見えるか見えないか
消えるか消えないか
意志も何もなく
存在に 価値も置かない
漆黒に 無
突き刺さる 氷山に 一角の獣 凶暴に 猛々しく 荒れ狂うが如き 嵐が吹きすさぶ
氷河は 転げ ゴロゴロ と 孤独 に 彷徨う
死者を 抱きて 我が身を 捨てる
無我に 一心に 死者に寄り添い 輪廻転生を導く生者として
それが 翻って より良き 生へと
虫や 動物 そして人間 が 連なっている 連綿と
上下や 右や 左や 関係のない コングリ替えって
苦しいや 悲しいも 楽しいも 嬉しいも 所詮 人が与えた 色
丁寧に 生き切っていく
厳しく 優しく 何処までも 突き抜けて行く 空にあって
対峙する 険しく あるときはゆるく 屈曲の山脈
砂に阻まれ 砂塵となる 岩肌の 土
全てに 拒絶と拒否 の 向こうに 手招く 抱擁を
ぶん取り 帰依する 人々有り
宇宙の構成は 堕地球 で バランスが なくなる どころか 極小の 微細の 地球の 存在など 問題に ならない だからこそ 宇宙の法則の 混沌を より混沌へと 引き受けさせる 混沌の混迷に 極め 極め 極めるが手だ 人間の 煩悩と相通じ そこに もう一度 杭を打つ
12. 巡礼あちらこちらから 声がこだまし 正月の カイラス山に向かう 巡礼のいつしか群に 夥しい 人の 思いを 五体投地する
13. 砂埃舞うが舞え 只の 埃と 木っ端微塵に 心地よく 価値を問う こと なく 只々 埃と 覚醒する
14. いい風よ吹け人もみな 塵となって 風に乗る 最期に 自然に帰る 唯唯 自然に 解けゆく 吹き荒れ 鎮まり 静かに 怒涛に 乱れ 巻き上げ 掻き混ぜ 宇宙に まで 届く まで 止まりはしない このいい風よ
高橋源一郎氏による推薦文
翔ぶな、態変!
人として生まれてきたなら、一度は、「態変」の舞台を見た方がいい。というのも、そこで、あなたは、いままで見たことのないものを見るからだ。
もちろん、この世界には、あなたが「いままで見たことのないもの」はたくさんあるだろう。わたしだって、そうだ。「いままで見たことのないもの」、「いままで聴いたことのないもの」、「いままで読んだことのないもの」、「いままで会ったことのない人」、「いままで……」以下同様、あなたは、間違いなく、実はほとんど毎日のように、初めて体験することに出会っているのである。ところが、不思議なことがある。そんな風に、毎日、初めて体験することに出会っている、というのに、あなたは(わたしもだが)、たいていの場合、ほとんど驚かないのである。驚いたとしても、「わあ、びっくりした!」とか「おお、すごい」といって感心する程度なのである。そして、数時間後には、あるいは数日か数週間後には、ほとんど忘れてしまうことになるのである。
なぜだろうか。理由は簡単だ。それは、その「初めての体験」や「いままで見たことのないもの」が、ほとんどすべて「想定内」であるからだ。別の言い方をするなら、わたしたちの側に、すっかり完成しきった常識があるからだ。それはもう何年にも何十年にもわたって、世間や社会からたたき込まれたもので、もともとは教わったものであることも忘れて、まるで物理の法則のように不変のものとして身についてしまっているのである。しかし、ほんの僅かであるけれど、ほんとうに「いままで見たことのないもの」が存在している。ほんとうに「初めての体験」としかいいようのないものがある。もう一つ、ほんとうのことをいうと、そういうものには、触れない方がいいのかもしれない。というのも、その「いままで見たことのないもの」を見たり、「初めての体験」をしてしまうと、あなたは、もう元には戻れないかもしれないのだ。それでもかまわないというなら、あるいは、「いや、どんな体験をしても、驚かない」という自信を持っていうことができるなら、どうぞ「態変」の舞台を見てください。
では、「態変」の舞台は、なぜ、あるいは、どのように「いままで見たことのないもの」であり、「初めての体験」となるのか。それは、あなたの常識をことごとくくつがえすからである。そうはいっても、たぶん、あなたは「常識をくつがえされるようなことぐらい、わたしにだってある」というだろう。そして、そのとき、わたしはこう返事をするだろう。「常識をくつがえす」ということに関する、あなたの常識は、「態変」の舞台を見て、くつがえされてしまうはずである、と。
ここまで、わたしは、「態変」の舞台のなにが、あるいは、どこが、「いままで見たことのないもの」や「初めての体験」なのか、書いてはいない。もったいぶっているわけではない。それは、ことばでいくら説明しても、実際に見なければ理解できないからでもあるし、そういったことが、一つや二つではなく、ほとんど無数といってぐらい存在しているからでもある。けれど、わたしも、ことばとして表現することを仕事している者だ。一つだけ、「態変」の舞台の特徴について書いておくことにしよう。
様々な身体障害者たちが登場する「態変」の舞台を見ていると、登場人物たちが異様な動きをしていることがわかる。健常者たちは、そんな動きはしない。しかし、見続けているうちに、なんだかおかしな気分になってくるのである。役者たちの「異様な動き」の方がまともではないか、それに比べて、我々(観客たち)の動きは、なんだかおかしいのではないか、と思えてくるからだ。「態変」の役者たちの動きが異様なのは、重力の作用を敏感に感じているからだ。この地上に存在するものはすべて重力の作用によってその動きを制限されていることがわかるからだ。では、我々(健常者たち)は、なぜそのように動かぬのか。鈍感だからなんだよ! 生きものたちは、重力によって地面に縛りつけられているんだよ。なのに、誰も(健常者たち)は気づかないんだよ。そんな、あまりにも正しいことを、「態変」の舞台は観客に突きつけるので、世界にとってはほんとに不都合なんだよ! 「態変」の舞台を見て、冷や汗をかき、家に戻って悪い夢を見てください。