上演パンフレットより

水は生命の源

我ら人間は、60%の水分を、その体に抱え右往左往している
毒でも、清涼でも、益に変える
なんて、ことはない

清涼な空気、清涼な水、そして植物との共生が不可欠
この地球の上に、ひっそりと、住まわせていただいて、ようやく

どこの星も、引き受けてはくれぬであろう、人種というこの体を抱えて

だから、変化し変幻自在を、夢見てみる
我々の態変の身体のように、自由自在に変化する、心が

宇宙の精神では、と
水に、誘われて

金滿里


ミズスマシ

第1場面  干枯らびた虚無
第2場面  膨
第3場面  生継者
第4場面  新天地
第5場面  生継者の隊列
第6場面  いきなり江南スタイル
第7場面  日時計の歌
第8場面  神無月
第9場面  九寨溝の龍
第10場面  水の上で滑る
第11場面  合わせ鏡


2013年2月発行ダイレクトメール ミズスマシ特集号


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劇評

供犠としての身体

  ――半詩形式による「ミズスマシ」論

清 眞人

黒い舞台。中央に暗い光を放つ池のような鏡面。
その右後ろに榎忠が創ったケロイド状の銀のオブジェ群。融解した工場に溶けきれずに残った機械とパイプの残骸か? それとも楽器なのか、あれは。半分植物化したサキソフォン? まるでミロの描く宇宙胞子のようにがチューブのように軟体化した。
その脇に銀の折り重なる段差の階段。
十三階段? 絞首台への。
それとも独裁者を演じる羽目になったチャップリンが独り立つ演説台への?
吊るされるのは何者? 
演説者は誰?
舞台の右ヘリにもまるで鉱物化した影法師のようにオブジェたちが。
原爆記念館にたしかあったな。原爆の閃光が壁に焼き付けた人間の影が。
ノシイカにされたような人影がうなだれて舞台のへりに座っているな。オブジェたちの一人になって。

吊るされるのも人類
演説するのも人類

  **

会場の明かりが消え開幕が近づく。
照明の光に舞台の中空を横切って浮かぶ煙がほのかに白い。水蒸気か?
黒子が役者たちを運んでくる。闇を透かしてそれが見える。
自分で這って位置に就く役者もいる。

闇が落ちる!
光が差す! 
水蒸気ではなかった。あの白い煙は海面だった。海底に人間どもが横たわっている。
「ミズスマシ」だって? 嘘だろ! 
あれは三月十一日に東北の海底に沈んだ人間たちさ。まだ屍体となっていない、死にきれない身体、それとも屍体から甦った身体? ともかく生きた身体、しかし死の際に立つ。
あの日の記憶が身体オブジェとなって深海の底の窪みに幾人か流れ寄せ集められた。
傷みの身体。
かろうじて死の孤独をまぬかれている。
七人が寄せ集まって

  ***

俺は最近キリスト教について考えることに夢中だ。
パウロによれば、イエスは十字架の上で残酷に刺殺された我が身を晒しものにすることで、われわれが、つまり全人類が抱える《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》の象徴・メタファーとなった。そうすることでまた自分自身を、《もしおまえたちが私を信仰するならば優しき憐愛をもって応える》という神との「新たなる契約」を成就するための供犠として捧げたのだ。
俺は思う。劇団態変の役者たちは繰り返し試みる。まるでイエスがそうしたように、彼らの身体をわれわれのために供犠として差し出しだすことを。《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》という「人間の条件」の一個の象徴・メタファーとなることを。いいかえれば、障害を刻まれた自らの運命としての身体を晒す見世物公演を、その場で、一瞬のうちに一個の聖典劇・神の降臨劇へと変換することを。
彼らは自分たちの残酷な運命を使命に変換しようと試みる。ドイツ語の「Bestimmung」は「規定」という意味と「使命」という意味とを併せもつ。運命は彼らを障害者と規定するが、その規定はでもある。運命が与えた規定から使命を汲むべきだというより、使命は運命となった規定からしか汲むことはできない。
規定を使命へとみずから変換する行為のみが、いいかえれば、それを供犠として差し出す行為のみが、生に意味を生む。誰しもがそれぞれの仕方で。
態変の役者たちは、障害を刻まれた身体という自分たちの運命を演劇という共同行為をとおして一個の使命に変換しようとする。使命、それは彼らの身体を《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》という「人間の条件」の一個のオブジェに変えることだ。
供犠といったな?
誰への? イエスのように、神へか? 
それとも宇宙、それとも全人類、それとも自分自身…、それとも?
昔、或る作家がいった。私は神を持たないが、祈るという生の形・姿勢を愛する。神は私の目的ではない。手段である。祈るという形を私の生に与えるための。だから私の神は名付け得ない。いてもいなくとも、どちらでもよい。祈るという生の形・姿勢、それが問題だ。それと似て、「誰への供犠か?」は問題ではない。
供犠という姿勢を取ることによってのみ彼らの身体は「人間の条件」のオブジェになる。
オブジェになることだけが問題だ。
誰かが彼らに頼んだわけではない。誰によっても頼まれたことはない。
或る意味、遊びだ。彼らの。
彼らの身体を生き抜くために、彼らが発案した遊び。
そういうやむにやまれぬが彼らの運命であり、
使命だと、おまえはいうのか?
俺はそういう。

  ****

ウォン・ウィンツァンのキーボードがピアノに似た音を一音叩く。また一音と。
キーボードが叩くピアノに似た音は物質となって舞台に鳴り渡る。いいかえれば、オブジェとなって、降る。鳴るというよりは降る。鳴るというよりは打つ。音は視覚化されねばならない。
オブジェ化の試みはメロディー化への拒絶である。
リズミックなあるいはメロディアスな切断されない流れとなった連続性への拒絶、これが提示されねばならない。音と音とのあいだは切断されなければならない。
態変の役者たちが、足を引きずって、一歩、また一歩と、体全体を傾がせながら歩行するように。体全体をバネと変えることで、ほんの少しほんの少しと、前に横に、押し出し、がせ、そうすることでやっと這うということ、転がるということを可能にするように。
音もまた単音となって、連続性を切断し切断し、闇から降るのでなければならない。叩かれた音は聴く者を叩く。痛覚として音が身体全体を打つ。それがベースだ。
たとえ後に、それが演奏者の魂の深い情感と精神のなかで曲という統一性へと取り返されることになっても、しかし、演奏者は切断性こそがベースだということを忘れてはならない。自分の情感と精神に誘惑されて、切断性こそがベースだということを忘れてはならない。なぜなら、身体の物質的な痛みは精神の浮遊を、陶酔を、おのれを一個の全体性として実現しようとする欲望を、統一性を突然切断し、引きずり転がる傷みの身体への帰還をどうしようもなく促すのだから。
この切断性こそが障害のいわば原事実・原規定だからだ。それこそが音を《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》のメタファーに変えるものだからだ。

  *****

菊地理恵が、前に投げ出した小さな両足首で自分の胴体を引き寄せる一瞬それを後押しするように尻で舞台を蹴る、そういう具合に自分を押し出し、小刻みに数センチ数センチと前進させてゆく。彼女の顔は紅潮し、小さな眼は光を放つ。
泣いてるんだ!
小泉ゆうすけの光る眼も楠本哲郎の光る眼も。光る眼は涙をこらえるからこそ涙に光る。
上月陽平が踊る。一本足のカカシが右に傾ぎ左に傾ぎ両手を頭のまわりで振り回すようにして二本足で踊る。顔はくしゃくしゃになる。くしゃくしゃになってこそ足は右に左に跳ねることができる。
菊地だけになる。ひとり舞台正面に出てくる。
小さな子供に還っている。彼女の障害は先天的なもので薬害サリドマイドの結果ではないが、サリドマイド児とよく似た形状の短い小さな両手を胴体の両側でばちばちさせ、顔いっぱいに口をあけ、叫ぶ。怒りは泣きじゃくる声となって爆発する。
初めて役者の声が舞台に登場する。態変の演劇はかたくなに台詞を拒絶し、声までも拒絶してきた。台詞どころか声・叫びすら拒絶して、身体表現だけで演劇する掟を自分に課してきた。それが菊地によって破られる。泣くという行為の原経験の所在が探られる。
声を放つとは、人間にとってまず幼児のときに泣きじゃくることによって経験される!
放つことは手放すことであり、防備を解くことである。防備を解くことなくして解放はない!
幼児の菊地のなかで泣きじゃくるということが経験された原点は、原風景はいずこにあるやという問いは、そのまま観客の一人一人の胸にそれぞれの問いとなってする。おのれの身体を《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》のオブジェとして供犠する試みは、菊地によって「泣きじゃくる」オブジェにもなる。
菊地は舞台の上に横向きに転がっている。観客にその後ろ姿を晒して。小さな子供が泣きぬれた自分の顔を見せまいと膝を抱えうつむき横倒しになって背中と尻を向け、転がっている。

俺に金満里が知らせてくれた。今度の「ミズスマシ」の舞台で菊地は奄美の六調を踊るから、見に来い、と。菊地の舞台には奄美シマ唄の唄者朝崎郁恵の唄が流れる。最後に菊地は立ち上がり、その短い小さい両手を頭上にあげ静かに静かに六調を舞いながら舞台のそでに消えてゆく。

  ******

《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》のオブジェと俺はいった。
だが、そのオブジェとなるためには或る光の逆照・後光・オーラが必要だ。
《運命の幸福・肉体の弾ける陽気・深い安息》が微光のようにあるいはまた残照のように輝くことが。
三人の女たち、金と菊地、そして彼女の障害もまた先天的なものだがサリドマイド児とよく似た両手と、上半身の身体しかもたないまだ少女の顔をした向井望とは、小さな幼い動物の子が巣の中で折り重なり、ふざけ合って、互いを甘噛みしながら生き物として遊ぶように、睦みあう。
いかなる《運命の残酷さ・肉体の弱さ・その痛み》のなかにもその反対物が秘匿されている。睦みあう肉体の幸福、弾ける陽気、深い安息。その光の逆照は、おそらくアメリカの黒人たちの音楽、ブルースやジャズへの金満里の共感と愛とに深く結びついてる。ウォンのキーボードがジャズ的に音を叩きだすとき、小泉、楠本、上月たち男たちの身体は激しく弾ける。そこでは最近態変の演劇で重要度を増してきた衣装という要素が踊り出す。
俺にはこう見える。反対的要素の拮抗作用が生み出す弁証法的効力への視線はますます鋭く強くなっていると。身体と声、レオタードと衣装、そして、手足胴体と顔の拮抗。この二項対立の弁証法的効力への。
安息の微光、残照でありまた希望であるもの、それは下村雅哉によって代表される。あの映画「チャップリンの独裁者」で独裁者の身体を床屋のチャップリンが簒奪し、ナチスのオーストリア併合の大勝利を誇示するはずの演説を、反ファシズム闘争への蜂起を勝利集会に集結した全ドイツ軍将兵に訴える演説に変換するという、悲痛な「歴史の夢」――実際にはその反対が起きたがゆえに永遠に「夢」でしかなかった「夢」―― が提示される。
ラストシーンでラジオから流れるその床屋の演説を、その結びの「ハンナ!」という呼びかけを、絶望に地に倒れ伏していた恋人ハンナが聴く。
天を見上げるその彼女の顔の輝きに似て、下村は彼方を見つめるその遠い眼差しを穏やかに輝かせる。
顔、その中心にある眼差しは、障害を残酷に刻まれた動くことのかなわぬ身体との鋭い対照において魂の不屈をあらわす。睦みあう肉体の幸福、弾ける陽気、深い安息、そして不敵な戦闘性を。

  *******

ビリー・ホリディのあのトレードマークであったくちなしの白い花の髪飾りを思わせる頭いっぱいの大きな黄色の花飾りを付けて、金満里は登場する。
なによりもまず、彼女の驚嘆すべき戦闘性を讃えたい。俺は。
相次いでこれまで彼女の片腕ともいうべき二人の役者、木村年男と福森慶之介を昨年の二月に亡くし、加えて事務所維持への補助金打ち切りを受け、文字通り金は窮地に立った。
しかし、彼女はその窮境に耐え抜いたどころではなかった。驚くべきことに、打って出た!
守りに入ったのではなく、攻撃に出た。その最高の証こそ今回の「ミズスマシ」であると思う。
彼女は挑戦しつづける。
反対的要素の拮抗作用が生み出す弁証法的効力への視線がますますいっそう鋭く強くなる。
俺はそう直観している。
障害を刻み込まれた身体を一個の供犠として差し出し、不具なる身体の見世物劇を聖なる降臨劇にその場において変換する態変の弁証法的試みにおいて、役者金の前には次なる挑戦の課題として二つのことが置かれているのではないか?
ビリー・ホリディの白いくちなしの髪飾りが象徴するテーマが。
エロティシズムと打ち開き明け渡す魂の開き、この二つの事柄が。
以前俺はこう書いたことがある。
「舞台の最終的帰着点が宇宙的沈黙の現出にあるとしたら、その沈黙は真に静謐でなければならない。世界を所有する眼差しは閉じられ、身体全体が舞台の上に無防備に投げ出され、あらゆる緊張を解いて、うつけたように宇宙に身を委ねているのでなければならないはずだ。」
苦痛と平安。
傷みと静謐。
激しい戦闘性と平和。
たしかジョン・レノンがいってたぞ! Mind Gamesのなかで。
「yes」こそ求めていた答。それは「surrender」、「降伏」すること。
まるでイエスだな。 抗うな! 打ちほどけよ!
エロティシズムもただこの反対物の統一の弁証法としてのみ成立する。
身体の供犠劇もまた、その総体がこの弁証法の提示である。それ以外ではあり得ない。
俺はそう思う。


きよし・まひと 1949年生まれ。近畿大学文芸学部教授。「人は自分の痛切な経験のなかからこそ、自分の価値観、美意識、世界観を生み出す」という視点からサルトルやニーチェの思想を読み解いている。最近の著書に『サルトルの誕生 ――ニーチェの継承者にして対決者』(藤原書店)『村上春樹の哲学ワールド ――ニーチェ的長編四部作を読む』(はるか書房)『三島由紀夫におけるニーチェ ――サルトル実存的精神分析の視点から』(思潮社)
ホームページ:http://mmkiyo49.com/

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境界は在るけれど、無い。

この世の水面に棲息する異人たち

田口ランディ

 劇団『態変』の主催者である金満里さんのソロ公演を、2012年の12月に観たことがきっかけで、2月14日から伊丹市のアイホールで行われた劇団公演にも足を運んだ。伊丹まで出向いたのは12月のソロ公演があまりに素晴らしく、魅せられたからである。友人のピアニスト、ウォン・ウィンツアンさんがライブで音楽を担当する、というのも魅力的だったが、一番興味があったのは結成三〇年になるこの劇団の……もっと露骨に言えば障害者による演劇に興味をもったからだ。

 12月はソロだったが、これが群舞になったらどうなるのか?
 それに、公演のタイトル『ミズスマシ』というセンスはすばらしい。
 水面とは外と内の境界である。その「境界=あわい」に住まう小さな命になにを託して表現するのか。

 伊丹で上演された『ミズスマシ』には7人の役者が登場する。
 舞台は暗転から始まった。サーチライトのような照明がぐるりと観客を照らし、目の前が真っ白になる。それから、暗い舞台がうっすらと明るくなっていく。舞台上にはあたかも外界を映す湖面のようにミラーシートが張られている。その上に、死体が転がっている……。それは死体としか見えなかった。しかも、爆撃を受けて傷ついた死体であり、しばらくするとその死体がぴくぴくと痙攣して息を吹き返すのである。

 なぜ、転がっている役者が死体に見えたのか……。それは、正直に言ってしまえば役者の腕がなかったり、足が曲がっていたりするからだ。そのいびつさのもつリアリティはフォルムとして喚起力があるのだ。もっと言えば、私を金縛り状態にしたのは、役者の向井のぞみさんの存在だ。向井のぞみさんの両腕は関節から先がなく、また腰から下の肉体もなかった。頭と胴体と二の腕だけの姿が、目の前に転がっていたのである。彼女は自分がどう見えるかを意識して、死体となっていた。死体を完璧に演じていたのだ。その光景は、激しい爆撃を浴びて飛び散った肉片のように生々しく、しょっぱなから背筋がびりびり痺れた。

 この人たちの身体が、ただそこに在るというだけで、私に与えるこの戦慄はなんだろうか……。
 それは、まぎれもなく……死体だった。

 演劇空間で死体を演じられる役者は少ない。ただ寝ていれば死体に見えるかと言えばそうではない。死体ほど難しい役はないのである。死体を演じればすぐ嘘が露呈する。
 だが……。繰り返し言うけれど、そこには死体があったのだ。確かに死体だった。
 その死にっぷりの見事さに、私はもうやられてしまったのだ。

 ほんとうの死体を見たときの戦慄が……甦ってきたからだ。
 無残な死体を見た時に、人間が感じるある激しい感覚……。それを体験したことがあるだろうか? なかなか体験できない感覚だ。人が他者の死を前にした感覚を、『態変』の役者たちは、いきなり私に喚起してきたのだ。
 体の不自由な役者が演じる最高の演技が死体であること。
 そしてその死体が完璧であったことに、天啓を得た。

 しかも、その死体は甦り、動き出し、這い回り、歩き出した。
 上半身しか肉体のない向井のぞみさんは、腕と頭でバランスを取りながら美しく蠢いている。腕の先は床にすれて真っ赤になり血が噴き出しそうだ……。彼女は自分の不完全な肉体をしっかり意識し、それがどう見えるかを最大限に考慮し、計算しつつ動いているのであり、その動きは全く体験したことのない恐るべき舞踏だった……。同時に彼女の肉体はコントロールから逃れて彼女の意識からズレていく。そのズレとの格闘が緊張感を生む。

 冒頭から、ガツンとやられてしまった。
 以降、1時間半、彼ら一人ひとりの動きからまったく目が離せなかった。

 そうか……劇団『態変』は三十年をかけて、その存在意義を探ってきたのか。自らの肉体を使った表現の可能性を追求し、こんなに美しく、奥深い人間存在の闇と光を見る者たちに放つまでになったのか……。そこにどのような葛藤があり、出会いがあり、試練があったことかを想像することは、私には不可能であった。その黒歴史は金満里という太陽の巫女のなかにブラックホールのごとく存在し、安易に近寄ることを許さない。

 そんなありきたりな問いには陳腐な答えしかないから問うな! 
 舞台の上から眼光によって威喝された気がした。
 ただ、じっと私を見なさい……と、彼らはそう言うのだ。

 芸術の力、人間がなぜ芸術を求めるのか、その意味、その答えのひとつが、この劇団の表現にあると思う。
 劇団『態変』の舞台表現は障害者でなければできないが、障害者だから凄いのではないのだ。芸術にはどのような境界もない。無境界なのである。無限に展開する命の多様性は、おおもとはある一つのものから生まれる。無から生まれて混とんを成す見えないエネルギーが世界を創造し続けている。

 それが命の本質である。そのことを、私たちは忘れているけれど、この舞台を観ていると、ふわっと薄明かりが差すように思いだされる。はっきりと……ではない。この多様さの背後にある柔い無量の光が、わたしにも、あなたにも、彼らにも、その裡から漏れているのを感じられるのだ。


たぐち・らんでぃ 作家。2000年に長編小説「コンセント」でデビュー。以来、人間の心や家族問題、社会事件を題材にした作品を執筆している。「できればムカつかずに生きたい」で婦人公論文芸賞を受賞。小説以外にも、ノンフィクションや旅行記、対談など多彩な著述活動を展開。11年には原爆から原発への歴史的経緯をまとめた「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本」(筑摩書房)を発表。2010年より対話のできる世代の育成のため「ダイアローグ研究会(in明治大学)」を開催、多くの参加者を得ている。3.11以降の社会と個人をめぐる葛藤を描いた最新作「サンカーラ この世の断片をたぐり寄せ」(新潮社)はネットを中心に熱烈な読者を集め話題となっている。

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