態変の転換点1

『色は臭へど』=態変旗揚げ


★劇団態変の旗揚げ公演『色は臭へど』(1983年)が行なわれることになったきっかけについては、»» こちら

金滿里が語る『色は臭へど』

  ※「異風堂々 --金満里が語る劇団態変20年史--」IMAJU vol.30 2004年 より 〔その全文は » こちら

--- 83年6月の大阪と京都での旗揚げ公演は、観客に対して挑発的で、生半可でない強烈な舞台が伝説になっていますね。

 セリフを使わず、身体性そのもので観客の中に入っていく、観る人を混乱させたいと考えていました。 そうでなくては障害者のリアリティは伝わらない。健常者が期待している障害者の在り方ってあるでしよう、それをぶっ飛ばしたかった。
 24歳の時に、それまでかかわってきた障害者の解放運動を辞めて、芝居を見たりする時間がとれるようになり、黒テントや唐十郎さん等の舞台を見始めたのですが、非日常的なものとしてイメージされているのは繃帯を巻かれた精神異常者っぽい人物や、大きな腹話術の人形だったりするのです。一般的にもたれている障害者のイメージが非日常を現すために使われている。だったら逆に非日常として扱われている私達自身が、それを逆手に取って、自分の世界観をぶつけてみたら、観ている人達の目から鱗が落ちるというか、世界観が拡がるのではないか、というのが着想のひとつだったのです。
 もうひとつは優生思想を撃ちたかった、当時アングラといっても、意識的にせよ、無意識的にせよ優生思想というものが根底にあったと思います。日常を逸脱させるものとして、障害者だったり奇形や人形だったり、そんなものが確実に演劇の中に出て来るんです。人間に限りなく近いけど、異物として自分達の中に同化されないものとして捉えられている。五体満足・優生思想に裏付けされている。そんな考え方を乗り越えられない芸術表現や芝居が、全然問題にされていないことが不思議でした。
 違う者としてそこにいるということを、逆の立場から表現する、逆転させてしまう。期待に添うような形ではなく、もっとぶっとぶような形でやらへんとアカンというのがあったので、感情等を投げつけてみました。観客はもう〝ブッタマゲ〟ですよね。

その後の展開

 実は、1983年6月京都・大阪での上演後は、これっきりで劇団活動を続ける意図は無かった。
 ところが、この公演が与えたインパクトは強烈で、東京での再演のオファーが飛び込んできた。----1983年に新宿で開館した小劇場、タイニイアリスの「アリスフェスティバル」からである。
 1984年のこの東京公演が一段と大きな反響を呼び、同年、大阪でも凱旋公演をすることになり、劇団態変の活動継続の道が開かれた。

 1983年の初演時に人気役者だったK氏(芸名 ゲリラ・クヨクヨ)は、東京遠征への決断の立役者であったが、行政の不手際によって東京へ行く前に非業の死をとげてしまった。
 その追悼公演として、1985年に『ゲリラ・クヨクヨがおんねん』を上演。K氏の死を招いた行政への糾弾や障碍者差別への告発をテーマとする作品だったが、表現としては寓意的・象徴的なやり方で展開した。
 これで、劇団態変の活動継続が決定づけられた。

 『でたいねん、コンチクショウ』(1986年)は金滿里が産休で他の劇団員だけでつくった喜劇風作品。金滿里作ではない態変作品はこれが唯一だ。

 『水は天からちりぬるを』 (1987年)は生命の根源としての水を意識し、子どもに母乳を吸われる感覚を抽象的に展開した作品で、次のエポックメイキングとなった『銀河叛乱'89』の萌芽を見ることができる。


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