ヴォイツェク

2013


原作 ゲオルグ・ビュヒナー
演出 金 滿 里

豆を食うヴォイツェク
 
 “生きる”実存感を掴むのにこれほど困難な時代が、これまであったろうか。
 人はその内なる生命の欲求に気づきながらも、強い方に巻かれ流され、安穏と生きることを好しとしその結果、大切なものに無感覚だ。
 無感覚にさせられるのは、隠微にひたひたと浸透してくる、日々の無意味な押し付け。労働を売り賃金を得、人よりも少しでもいい生活を手に入れたい、とする見えない鎖に縛られる営みがあるだけ。
 実は、狂う、というヴォイツェクの末路は、時代が変わろうと変化しない人間社会自体の持つ歪であり、例えそれが嵌められたとしても、そこにあるのは、誰の上にも起きうる、心の叫びを上げる止むに止まれぬ行為なのではなかろうか。
人としての悲哀と、真剣に実際の存在に触れようとすれば、狂わずにいられない性、が真実なのかも知れない。
 その真実に触れる為に、ヴォイツェクへと向かう。

金滿里

» 上演データ |  » 作品詳細 |  » 文書資料 |  » 舞台写真  | 



ヴォイツェク

2016


原作 ゲオルグ・ビュヒナー
演出 金 滿 里

佇むヴォイツェク
 
 ミステリアスな雰囲気に満ちたビュヒナーの戯曲『ヴォイツェク』は、態変の身体障碍の身体性とよく合う。それは、歪んだ体、脱力した体、欠損の体、硬直した体、それらが合わさって物語るともなく紡ぎ出す、心の奥底にある深い襞とそこに到達すると、見ざるを得ない、破壊への衝動である。
 人が、ここまでねじれ、出会いそこね、言葉にならない現代にこそ『ヴォイツェク』の奥深くにある、出会い直しへの希求、生きることの孤独、繋ぎ止められ尚且つばらばらに分断される閉塞感、への真っ当な人間たらんとする叫びがいる。 それは、溜めにためた最後にしか飛来しない、創造へ向かうべく破壊力の態変の身体性だ。
 態変の『ヴォイツェク』は、いろんな形で、今後も上演する課題である。

2016.10.18 金滿里


» 上演データ |  » 作品詳細 |  » 劇評(倉田めば) |  » 舞台写真  |

【閉じる】