“生きる”実存感を掴むのにこれほど困難な時代が、これまであったろうか。
人はその内なる生命の欲求に気づきながらも、強い方に巻かれ流され、安穏と生きることを好しとしその結果、大切なものに無感覚だ。
無感覚にさせられるのは、隠微にひたひたと浸透してくる、日々の無意味な押し付け。労働を売り賃金を得、人よりも少しでもいい生活を手に入れたい、とする見えない鎖に縛られる営みがあるだけ。
実は、狂う、というヴォイツェクの末路は、時代が変わろうと変化しない人間社会自体の持つ歪であり、例えそれが嵌められたとしても、そこにあるのは、誰の上にも起きうる、心の叫びを上げる止むに止まれぬ行為なのではなかろうか。
人としての悲哀と、真剣に実際の存在に触れようとすれば、狂わずにいられない性、が真実なのかも知れない。
その真実に触れる為に、ヴォイツェクへと向かう。
金滿里